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恩讐

「人質の交換ですと」

 史文恭が聞き返す。

「ああ、そうだ。梁山泊が、そう言ってきた。和議はこちらから申し出たのだ、断れぬ」

 曾弄が渋い顔で言う。すでに二人の息子を失った。これ以上、誰を人質に出せばよいというのだ。

「それと、あの馬を寄越せと。そもそもあの馬が原因でもあるのだ、と言ってきておる」

 照夜玉獅子の事だ。あの馬は希代の名馬、渡す訳にはいかない。

 そこへ曾昇が入ってきた。じっと曾弄と史文恭を見つめ、

「私が行きます」

 覚悟を決めた目で言った。

 曾弄は慄きながらも言った。

「良いのか、昇」

 史文恭は平然と言うく。

「さすが曾家の五虎がひとり、大したものだ。良いのだな」

 人質となるという事は、敵に命を預けたも同じだ。

「父と、先生を信じております」

「そうか。わしも師として誇りに思うぞ。後は任せておけ」

 頭を下げ曾昇が去った。兄弟の元へ行くのだろう。

「そうです、曾弄さま。梁山泊へは、郁保四を共に送りましょう」

「あの男を。どうして」

「曾頭市のために戦うと誓ったのです。いざとなったら身を挺してご子息を守らせるようにさせましょう」

「それは良い考えだ。さっそく手配してくれ」

 史文恭は会釈をして部屋を出た。

 蘇定を呼び出し、郁保四を連れてくるよう言った。

「あの男を送るのか。照夜玉獅子は返さんのか」

「あの竜駒を手放せると思うのか。険道神か知らぬが武芸の腕がある訳でもない、ただでかいだけではないか。それにあいつは梁山泊の馬を強奪したのだぞ。余計な火種を持ちこんだのはあいつだ。その責任は、自分の首で取ってもらわなければな」

 史文恭は淡々とそう告げた。

 蘇定は唸った。たしかに一理ある。郁保四が来るまで、梁山泊もおとなしく手を引いていたのだ。

「では、頼んだぞ。戻ったら今後のことについて策を練りたい。奴らが講和など考えているとは思えんのでな」

 わかった、と蘇定が廊下を曲がってゆく。

 狼狽する曾弄。五虎もすでに三匹、さらに一匹は人質だ。

 そろそろ終いかな、この曾頭市も。

 史文恭は静かに目を瞑った。

 

 最初、宋江は和議の手紙を引き裂いた。

「いまさら和議だと」

 宋江がこんな怒りを見せることは珍しい。それほどまでに晁蓋を慕っていたのだ。

 呉用はあくまで冷静に努めている。

「私も同じ思いです。このまま曾頭市を許す訳にはいきません。ですが」

 この和議の報と同時に、青州軍と凌州軍が援軍に出されていた。青州軍には関勝を、凌州軍には花栄を向かわせている。

 援軍が曾頭市と合流するのを防がなくてはならない。そのため、和議を受けるふりをしなければならない。

 人質として向かうことになった李逵(りき)たちを、宋江が見送る。

「頼んだぞ、李逵」

「任せてください。兄貴の命令ならば、たとえ火の中ですよ」

 李逵がにこやかに笑っている。

 共に向かう樊瑞、項充、李袞、時遷が続いた。

 それと入れ替わるように曾頭市側から来た曾昇と郁保四が、それぞれの陣幕へと連れて行かれた。

 毅然とした態度の曾昇ではなく、呉用は郁保四の元へ向かった。

 呉用は下から見上げる形だったが、どこまでも尊大な態度だった。

「あなたは馬の代わりですか」

 郁保四のこめかみに血管が浮き出た。

「何の事だ」

「おや、知らされていないのですか」

 呉用が憐れむような目をした。襲いかかりそうな郁保四だったが、左右の呂方と郭盛がそれをさせない。

 郁保四はもう一度、何の事だ、と聞いた。

「私たちはあの馬を、照夜玉獅子を返すように言ったのです。ですがあなたが来た。曾頭市は、あなたよりも馬の方が大事なようですね」

 郁保四の顔が紅潮する。

「俺は、曾頭市のために人質として」

 と言いかけた。だが呉用は郁保四に向けて、あなたは騙された、いいように使われた、捨て駒だ、などと水が迸るかのごとく滔々と説いた。

 そうなると今度は郁保四の顔が青ざめる番だ。

「お、俺は。やっぱり、そうなのか」

 見ている呂方と郭盛が気の毒になるほどの落ち込みぶりだ。

 そして呉用は、たっぷりと沈黙の時間を取ってから、ぽつりと言った。

「私なら、あなたの力を存分に使ってあげられるのですが」

 すぐに呉用は、失言したという風に、口元を慌てて羽扇で隠した。

 郁保四はその言葉に喰いついた。

「今、なんて言ったんだ」

「いえ、何も。気のせいでしょう」

「いや、聞いたぞ」

「何をです」

「あんたらの力になる」

 郁保四は跪くように、顔を呉用に近づけた。

 呉用は確かめるように、郁保四の目を覗き込む。

「曾頭市を裏切るというのですか。あなたは梁山泊の馬を奪い、索超と段景住を殺そうとしたのですよ」

「確かに、そうだ」

「梁山泊に味方するとなると、両方から恨まれることになるかもしれませんよ」

 郁保四の顔に脂汗が浮いている。

 呉用は内心にやりとする。

 揺れている。後はこの男次第だ。

「分かりました。あなたを信じてみましょう」

 呉用は郁保四に策を告げた。

 郁保四はその策を何度も反芻したが、鼓動は高鳴るばかりだった。

 ふと史文恭の、あの冷たい目が蘇ってきた。

 曾頭市か、梁山泊か。

 覚悟を決めるしかなかった。

 夜半、その報告に曾弄は飛び起きた。

 呼び出された史文恭と蘇定が息せき切って部屋へと飛び込んできた。そして驚いた。そこには郁保四がいたのだ。

「どうしてここに」

 蘇定が詰問する。

「奴ら、梁山泊は講和する気なんぞ、これっぽっちもありません」

 それを伝えるため隙を見て逃げてきたのだ、と郁保四は言った。

 よく逃げてこられたものだと思うが、蘇定は続きを促した。

「青州と凌州から援軍が出されたことを知っておりますか」

 曾弄はかぶりを振る。史文恭も蘇定も知らなかった。

 あわてふためいた梁山泊は大半の兵をそちらに割き、時間稼ぎをしているのだという。

 後から駆け付けた曾密と曾魁が、この機に乗じて襲うべしと高らかに叫んだ。曾昇のことが気がかりな曾弄だったが、救いだせると踏み、出撃を決めた。

「よくやった、郁保四。すぐに案内せよ。先生たちも」

 静かに頷いた史文恭。曾密たちのあとから部屋を出て、ゆっくりと蘇定を振りかえった。

「いま話ができるか」

「え、ああ」

 そういえば今後のことについて相談したいと言っていた。

「曾家の者に聞かれてはまずい。こっちへ」

 史文恭は使われていない部屋へと入った。そしてずばりと言った。

 曾頭市は終わりだ、と。

 目を見開く蘇定に構わず続ける。

「そこでだ、蘇定。礼を返してほしいと思ってな。お前を放りださなかった礼を、な」

 史文恭の目が、いつになく冷たいものになった。

 それはいらなくなった物を捨てる時の、何の感情もない目だった。

 

 曾頭市、法華寺の陣中に、梁山泊の人質である李逵たちがいた。

 五百人ほどの兵に監視され、縄をかけられている。

 兵たちの頭の上から、ひょっこりと郁保四の上半身が現れた。

「いよう、でかいの。待ってたぜ」

 時遷が、気軽な様子で笑った。

 なにを言っているのか。待っていたと言ったのか。

 そして、その声と共に樊瑞がなにか文言を唱えだした。

 兵たちが驚きの声を上げる。

 突如、樊瑞たちが炎に包まれたのだ。

 兵たちは急いで井戸から桶を運び、水を掛けるが一向に消える様子がなかった。

 手を拱いていると、炎の中から何かが飛んできた。

 一度に十人ほどの兵が倒れた。その胸に短刀が刺さっていた。

 獣のような雄叫びが聞こえ、炎の塊が飛び出した。その炎が次々と兵と倒してゆく。

 目の前で何が起きているのだ。逃げ惑う兵たちを見ながら、郁保四は目を白黒させるばかりだった。

 やがて立っている兵がいなくなると、炎がふいに消えた。

 現れた李逵たちはどこにも火傷など負っていなかった。

 時遷が、また後でなと言い、どこかへ飛んで行った。見ると、李逵らは手に武器を持っていた。

「おい、そいつは一体どこで」

 項充と李袞がにやりと笑った。彼らの手には団牌まであった。

 樊瑞が流星鎚(りゅうせいつい)についた血を落とすように振った。

「幻術だ。これくらい造作もないこと。さあ、もうひと暴れといこう」

 樊瑞の言葉に三人が応え、駆けだした。

 その後すぐに火の手が上がった。

 時遷の去った方角だった。

「郁保四どの、大変です」

 駆けてきた曾頭市兵を、郁保四が殴り飛ばした。

 もう後に引くことはできない。

 郁保四の雄叫びがこだました。

 

 凌州軍は花栄の弓の腕に散々痛い目にあわされ、また馬麟と鄧飛の活躍により、ほうほうの体で逃げて行った。

 一方、青州軍を追い返した魏定国が拳を突き上げ、吼えていた。単廷珪は関勝の側にいる朱武に顔を向ける。

「さすがは神機軍師どの。実戦では、やはり朱武どのの方が」

「そうだ、単廷珪。呉用どのも朱武どのも、どちらも素晴らしい軍師だ」

 関勝が朗(ほが)らかに笑い、その言葉を遮った。

 魏定国に小突かれ、単廷珪は己の愚を悟った。

 朱武は軽く微笑むと、退却してゆく青州軍を見やった。そして呉用を思った。

 単廷珪と同じ考えを、朱武も持っていた。書物ばかり読んだだけの軍師ではないのか、と。

 だが梁山泊に入山し、しばらく経った頃である。呉用が朱武の元を訪れた。挨拶もそこそこに呉用はいきなりひれ伏した。

「一体どうしたのです。顔を上げてください」

「頼みがあって参りました。戦の事を一から教えて欲しいのです」

 その決然とした瞳に映る己を見て、朱武は恥じた。

 嫉妬していたのは朱武だったのかもしれない。恥も外聞もなく新参者に頭を下げるなど、自分にできるだろうか。

「私の方こそ、教えていただきたい事が山ほどあります」

 そして二人の軍師は、笑いあった。

 呉用は貪欲だった。知を得ることに渇望しているかのごとく、朱武からあらゆることを学ぼうとした。

「我々も早く曾頭市へ戻りましょう。いまごろ敵が襲ってきているかもしれません」

 うむ、と朱武が頷いた。だがそれほど心配はしていなかった。

 呉用の力を、智多星の力を、朱武は一番知っているのだから。

 

 雲の隙間から微かに月の光が差す中、曾頭市軍が真っ直ぐに駆けている。目指すは梁山泊の陣だ。

 梁山泊軍の隙を、戻った郁保四から伝えられていたのだ。

 曾密と曾魁は、兄弟の仇を討つべく、そして曾昇を救い出すべく、勇ましく斬りこんだ。

 目に付いた敵を、片っぱしから斬る。そう意気込んでいた彼らだったが、それを成すことはできなかった。

 雲が散り、月の光に照らされた梁山泊の陣営は、もぬけの殻だった。

 謀られた。そう悟った彼らは急ぎ、曾頭市へと引き返した。

 曾密と曾魁が戻った時だ。法華寺の辺りにある鐘楼から大きな火が立ち上(のぼ)った。それを合図に、東西から火砲が放たれた。

 すでに梁山泊軍が攻め込んでいたのだ。

「落ち伸びるのだ、魁」

 そう叫び、西へ駆けこんだ曾密。はっと見ると目の前に立派な髯を蓄えた騎兵がいた。美髯公、朱仝である。

 槍を構えた曾密は、朱仝の刀に貫かれ、果てた。

 東へ駆けていた曾魁は、横合いから飛び出してきた馬軍とぶつかった。避ける間もなく、蹄によって肉泥と化した。

 曾頭市兵を斬りまくる史進が気付いた。

 北門の方へ駆けてゆく白馬。あれは照夜玉獅子ではないか。だとすれば、騎乗の将は史文恭である。

「いたぞ、史文恭だ」

 史進が叫び、梁山泊兵が追いたてる。

 史文恭の行く先に、誰かが飛び出してきた。

「危ない、宋江どの」

 呉用の声で、宋江は正面を見た。

 照夜玉獅子が駆けてくる。史文恭だ。

 乱戦の中で、気がつけばこの場にいた。

 逃げねば。

 だが宋江は、その考えを捨てた。

 あの史文恭に勝てるはずがない。しかし目の前に晁蓋の仇がいる。

 射(う)てと、誰かが号令を放った。

 宋江の背後から数十もの矢が飛来し、史文恭を貫いた。

 史文恭は鞍上で体勢を崩したが、照夜玉獅子は駆けるのをやめない。

 宋江の、刀を持つ手が震えた。

「晁蓋の兄貴、力を」

 おおお、叫ぶと同時に宋江が馬腹を蹴った。

 史文恭と宋江が交差した。

 宋江の刀が、綺麗な弧を描いた。

 史文恭の首が、飛んだ。

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