108 outlaws
恩讐
二
双方が睨みあったまま、すでに三日が過ぎた。
梁山泊軍が曾頭市に着く直前、時遷が報告に来た。
曾頭市への道は狭くなっている。そこへ落とし穴を掘って待ち構えているというのだ。
「思った通りですね。黙って待っているはずはないと思いました」
呉用は、その穴に印をつけるように時遷に命じた。
翌日、北の陣で梁山泊軍がようやく動いた。
しかし騎兵を陣の前に並べただけで、それ以上前には出なかった。
曾頭市の北を守る曾塗は決めかねていた。敵の動きが定石通りではないのだ。共に守る蘇定も同じだった。
居並ぶ梁山泊騎軍の中央に、楊志と史進がいた。
楊志が横目で史進を見やる。梁山泊に来た頃、放つ気を隠そうともしなかった。だが何度か戦ううちに、ひと頃よりは落ち着いたようだ。
だが、
「うずうずするか、史進」
「いや、そんな事はない。待て、という指示なんだろ」
気持ちは分からないでもない。戦いたくて疼くのだろう。楊志もそういう時があった。
「王進どのに教わったんだってな」
「知っているのか、師父のことを」
「残念ながらお会いしたことはない。だが開封府にいたことのある者ならば、いや武の道を歩む者ならば聞かぬ方が無理というもの」
史進は満面の笑みを浮かべた。
「強かったよ。とんでもなくな」
「習ったのは技だけかな」
む、と史進が笑みを消す。
どういう意味だと言いかけた時、王進の顔を思い浮かべた。
王進は、史進の父は強い、と言った。
あの時は史進には分からなかった。だがいまは分かる。
梁山泊にはもちろん腕の立つ者たちがごろごろいる。林冲や花栄、秦明そして横にいる楊志。彼らは強い。だが腕だけではない。心の強さも兼ね備えていた。
史進の疼きがおさまったようだ。
心の強さ。これだけは誰も教えられない。史進自らが、その体をもって、心をもって、学ぶしかないのだ。
楊志は魯智深を思い出した。楊志もまた、魯智深からその強さを学んだのだ。
「おう、なんだ。うちの大将に文句でもあんのかよ」
少し離れた所にいた陳達が寄ってきた。諍いでも起こしていると思ったのだろう。
史進と楊志が一瞬きょとんとし、そして笑った。
「な、なんだよ」
「すまない、陳達。なんでもない。ちょっと昔話をしていただけだ。王進どののな。さ、持ち場へ戻れ。もう戦いは始まってるんだ」
訝しげな顔をしながら陳達が楊春の横へと戻ってゆく。
心配は無用だったかな。
「頼りにしてるぞ、史進」
楊志は曾頭市に目を戻した。
翌日になり、いよいよ戦が動き始めた。
東の陣では魯智深と武松が敵に斬りこんでいた。さらに西の陣で朱仝と雷横が曾頭市めがけて襲いかかった。
曾頭市側の東では曾魁が、西では曾索がそれを受けていた。だが梁山泊の攻撃は激しく、史文恭の元へ東西から援軍の要請がひっきりなしにやって来る。
本陣からそれぞれ兵を分け与え、さらに別なところへ兵を割(さ)いた。
曾頭市の周りの山へ伏兵として送り込んだ。梁山泊が落とし穴に嵌った時、追い討ちをかけるためである。
だが梁山泊本陣は動かない。宋江を主将とし、呉用と公孫勝が側に控えている。前面には解珍と解宝が従える歩兵が、ずらりと並んでいる。
対する史文恭も陣を敷くが、動かない。
いや動けない。史文恭は歯嚙みをする。
ぬかったわ。掘らせた落とし穴が、自らの枷になるとは。東西からの喚声がやけに聞こえてくる。
その時、曾頭市の伏兵が戻ってきた。
何が起きた。史文恭が叫ぶ。
伏兵が背後から襲われ、山から出てきたという。
呉用は敵の動きを読み、騎兵を送っていた。騎兵に追われた曾頭市の伏兵が落とし穴に落ちてゆく。
おお、と歓声を上げる宋江の横で、呉用はただ羽扇をくゆらせていた。
穴の存在が露見していたという事か。ならば仕方あるまい。
「進めい。奴らを根絶やしにするのだ」
史文恭が陣を動かした。
だが、落とし穴が、と兵のひとりが言った。即座にその兵の首が飛んだ。
史文恭の持つ刀からは血の雫。
野良犬を見るような目で静かに、冷徹に言った。
「いま一度だけ言う。進め」
うわあ、と悲鳴とも雄叫びともつかぬ叫びを上げ、曾頭市軍が前に出た。
穴に落ちながらも進む曾頭市軍。だが梁山泊軍は決して落ちることなく進んでくる。 時遷のつけた印のおかげだ。
本隊がぶつかるその寸前、梁山泊軍の中から車が押し出されてきた。車には粗朶や硫黄などが積まれていた。
「行くぜ、兄貴」
「よし、押せい」
解宝が部下たちと火を付けて回り、解珍の号令で車を勢いよく押し出した。
呉用がちらりと公孫勝を見る。
公孫勝が文言を唱え、古定剣を指し出す。
風が勢いよく吹き始め、曾頭市軍に向かって炎が伸びる。さらに炎と共に黒煙が曾頭市軍を襲う。炎は兵だけではなく柵や門なども舐めつくした。
史文恭は撤退の鉦を鳴らした。
炎と梁山泊に追われ、曾頭市軍はかなりの被害を受けた。
南門もかなり損傷してしまい、修復作業は夜通し続けられた。
「私が奴らの首領を討ってきます」
翌朝、鼻息も荒く曾塗が吠えた。四人の兄弟もそれに呼応する。
初戦の敗退がよほど悔しかったのだろう。五虎を、曾弄も抑えきれぬようだ。
仕方なく、出陣をさせることにした。
颯爽と馬を駆り、曾塗が戦場へ出る。対するは呂方である。
槍と方天画戟が何度もぶつかる。すでに三十合ほど打ち合い、両者互角に思えた。
だが曾塗が雄叫びをあげた。その攻撃の勢いが増し始めた。負けてたまるものか。その想いが、均衡を破った。
呂方の画戟が乱れた。疾風の如き槍が頬をかすめた。
馬から落ちそうに前のめりになっていた郭盛が、飛びだした。曾塗の攻撃を画戟で弾く。
「おい、負けそうになってるんじゃねぇぞ」
「すまん、郭盛。こいつ、強いんだ」
「強いんだ、じゃねぇ」
そう言いつつ、郭盛が曾塗を攻撃する。
畳みかけたい曾塗だったが、さすがに二対一では分が悪い。
呂方と郭盛が同時に得物を振り上げた。曾塗はそれをよく見ており、槍を横薙ぎに払って弾いた。
その時、呂方と郭盛が声を上げた。二人の画戟の房が、またも絡み合ってしまったのだ。
思わず宋江と花栄が顔を見合わせた。双頭山の再現ではないか。
すぐに花栄が馬を飛ばし、あの時と同じように房を解くべく、矢を放った。
矢は房を見事に打ち抜き、解き放った。
おお、と梁山泊から感嘆が漏れた。
しかし隙を逃さず、曾塗が槍を放っていた。狙いは呂方の首だ。
だが槍はあらぬ方向を突いた。
「なんだと」
曾塗の左腕に、矢が刺さっていた。
花栄の矢は房を解くためのみならず、さらに曾塗を狙ってもいたのだ。
「さすがは小李広」
宋江が喝采を送る。
曾塗は呻きながら槍を手放してしまった。そこへ、赤と白の画戟が同時に突き出された。
画戟に貫かれ、憎々しげな目を呂方と郭盛に向け、曾塗は馬から落ちた。
「山賊め」
という恨めしげな声を残して。
「兄者」
涙まじりの雄叫びを上げながら一騎が疾走してきた。
曾家の五虎、末の弟の曾昇であった。
史文恭と蘇定が止めるのも聞かず、飛びだしたのだ。
馬を進めようとした秦明の横を黒い風が通った。
「うおおおお」
と叫びながら駆けるのは李逵だ。両手の斧を振り回しながら走る様は、まさに黒旋風だ。
曾昇は配下の兵に、矢を射るよう命じた。
「まずい」
そう叫んだのは項充だ。
「何をしている、行くぞ、項充」
言うが早いか飛びだす李袞だったが、やはり遅かった。
乱れ飛ぶ矢の一つが、李逵の腿に突き刺さった。李逵は体勢を崩し、地面に転がってしまった。
剣を上げ、曾昇が真っ直ぐ駆ける。李逵を救うため、項充、秦明も駆ける。
続く矢は、李袞の団牌が防いだ。
「大丈夫か、李逵」
背に李逵を守りつつ標鎗を放ち、射手を二人仕留める。
突撃しようとした曾昇だったが、兵たちに止められた。その兵も、項充の飛刀に倒れると、やむなく曾昇は引き返した。
「兄者の仇を討つのだ」
「守ってばかりいては、奴らを調子づかせるだけです」
「先生の力があれば、怖いものはありません。どうか」
曾昇の戦いを見ていた曾密、曾索、曾魁が口々に訴える。蘇定までがすがるような視線を史文恭に送る。
史文恭は身じろぎもせず、それを受け止めていた。やがて静かに言った。
「わかりました。討って出ましょう」
おお、と叫び、兄弟たちが飛び出してゆく。
史文恭は家人に鎧を持って来させ、馬を出させた。
戦場に史文恭が現れた。
沸き立っていた梁山泊軍が一瞬にして静まった。
あの男だ。
晁蓋の命を奪った男だ。
見事な馬に跨る史文恭。段景住が奪われたという照夜玉獅子だ。
晁蓋の仇。梁山泊の誰もが、そう声を出そうとした。だが史文恭から放たれる圧倒的なまでの威圧感の前に、それができないでいた。
前回、刃を交えた鄧飛が思いだす。あの時と同じ、うすら寒いものが背を駆け抜ける。
だが、その張り詰めた空気を破らんばかりに大音声が轟いた。
「貴様が史文恭か。わしの名は秦明。いざ尋常に勝負しろ」
まさに霹靂。史文恭に向かって狼牙棒を振り上げ、突進してゆく。
それに鼓舞されたように梁山泊兵たちも駆け始めた。
史文恭が馬を飛ばす。秦明が瞬きふたつする間に、距離を詰めた。
これほどまでの馬だとは。狼牙棒を振るが、間に合わない。
史文恭が放った神速の槍が、秦明の腿を抉った。
秦明が前のめりに馬から落ちる。そこへ曾頭市兵と、馬を返した史文恭が襲いかかる。
秦明は動けない。史文恭の槍が光る。
だがすんでのところで、槍の柄に鉄鏈が絡みついた。
「また、お前か」
鉄鏈を握る鄧飛にちらりと目を向けただけで、史文恭はさして動じてないようだ。史文恭は槍をあっさりと捨て、刀を抜いた。
だがこれで良い。この一瞬で良かった。
史文恭を、二つの戟が襲った。しかし呂方と郭盛の攻撃を難なくかわし、史文恭はまだ秦明に向かう。
しかしその前に馬麟が待ち構えていた。呂方と郭盛も後ろから追いすがる。
史文恭は身を低くすると馬を速め、向きを変えた。
馬麟と秦明の脇を、疾風が駆け抜けていった。
「秦明どの、大丈夫かい」
馬麟が秦明を鞍の後ろに乗せてやる。腿の傷は深いようだ。血が流れ続けている。
「すまぬ。しかしこれほどの腕とは」
林冲や呼延灼に聞いてはいた。あの二人をして、強いと言わしめるとはどんあ男かと想像していた。だがその想像以上だった。
その夕刻、宋江と呉用が話し合っていた。
「秦明は梁山泊へ戻すのだな」
「仕方ありません。その代わり、援軍の要請をしたいと思います。関勝と徐寧、あとは凌州の二人あたりと考えておりますが」
うむ、と宋江が頷き、呉用が悩むような表情を見せた。
「どうした」
「今夜あたり、夜襲の備えをしておいた方が良いかと」
「来るというのか」
梁山泊はあえて攻撃せず、数日間包囲する事で曾頭市の神経を消耗させる策だった。
今日、ついに向こうから仕掛けてきた。そして史文恭まで引きずりだした。
相手は焦っている。さらに曾塗を討ち取られた怒りをぶつけてくるだろうと、呉用は言う。
はたして呉用の予感は当たった。
空の陣地へ攻め寄せた曾索は慌てふためいた末、解珍と解宝に仕留められた。
曾弄は泣き叫び、史文恭と蘇定を責め立てた。
しかし二人は曾索の夜襲を知らなかった。曾密が言うには、史文恭に言えば止められるからと、兄弟たちだけで決めたのだという。
その結果が、曾索の死である。兄弟はその事実を受け止めざるを得なかった。
史文恭は怒りはしなかった。ただ残された曾密、曾魁、曾昇を哀れな目で見るだけだった。
宋江の元へ驚くべき報告が届けられた。
ひとつは凌州と青州から援軍が派遣されるようだという事。
そしてもうひとつ、それは曾頭市からの和議の申し入れだった。