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恩讐

 双方が睨みあったまま、すでに三日が過ぎた。

 梁山泊軍が曾頭市に着く直前、時遷が報告に来た。

 曾頭市への道は狭くなっている。そこへ落とし穴を掘って待ち構えているというのだ。

「思った通りですね。黙って待っているはずはないと思いました」

 呉用は、その穴に印をつけるように時遷に命じた。

 翌日、北の陣で梁山泊軍がようやく動いた。

 しかし騎兵を陣の前に並べただけで、それ以上前には出なかった。

 曾頭市の北を守る曾塗は決めかねていた。敵の動きが定石通りではないのだ。共に守る蘇定も同じだった。

 居並ぶ梁山泊騎軍の中央に、楊志と史進がいた。

 楊志が横目で史進を見やる。梁山泊に来た頃、放つ気を隠そうともしなかった。だが何度か戦ううちに、ひと頃よりは落ち着いたようだ。

 だが、

「うずうずするか、史進」

「いや、そんな事はない。待て、という指示なんだろ」

 気持ちは分からないでもない。戦いたくて疼くのだろう。楊志もそういう時があった。

「王進どのに教わったんだってな」

「知っているのか、師父のことを」

「残念ながらお会いしたことはない。だが開封府にいたことのある者ならば、いや武の道を歩む者ならば聞かぬ方が無理というもの」

 史進は満面の笑みを浮かべた。

「強かったよ。とんでもなくな」

「習ったのは技だけかな」

 む、と史進が笑みを消す。

 どういう意味だと言いかけた時、王進の顔を思い浮かべた。

 王進は、史進の父は強い、と言った。

 あの時は史進には分からなかった。だがいまは分かる。

 梁山泊にはもちろん腕の立つ者たちがごろごろいる。林冲や花栄、秦明そして横にいる楊志。彼らは強い。だが腕だけではない。心の強さも兼ね備えていた。

 史進の疼きがおさまったようだ。

 心の強さ。これだけは誰も教えられない。史進自らが、その体をもって、心をもって、学ぶしかないのだ。

 楊志は魯智深を思い出した。楊志もまた、魯智深からその強さを学んだのだ。

「おう、なんだ。うちの大将に文句でもあんのかよ」

 少し離れた所にいた陳達が寄ってきた。諍いでも起こしていると思ったのだろう。

 史進と楊志が一瞬きょとんとし、そして笑った。

「な、なんだよ」

「すまない、陳達。なんでもない。ちょっと昔話をしていただけだ。王進どののな。さ、持ち場へ戻れ。もう戦いは始まってるんだ」

 訝しげな顔をしながら陳達が楊春の横へと戻ってゆく。

 心配は無用だったかな。

「頼りにしてるぞ、史進」

 楊志は曾頭市に目を戻した。

 翌日になり、いよいよ戦が動き始めた。

 東の陣では魯智深と武松が敵に斬りこんでいた。さらに西の陣で朱仝と雷横が曾頭市めがけて襲いかかった。

 曾頭市側の東では曾魁が、西では曾索がそれを受けていた。だが梁山泊の攻撃は激しく、史文恭の元へ東西から援軍の要請がひっきりなしにやって来る。

 本陣からそれぞれ兵を分け与え、さらに別なところへ兵を割(さ)いた。

 曾頭市の周りの山へ伏兵として送り込んだ。梁山泊が落とし穴に嵌った時、追い討ちをかけるためである。

 だが梁山泊本陣は動かない。宋江を主将とし、呉用と公孫勝が側に控えている。前面には解珍と解宝が従える歩兵が、ずらりと並んでいる。

 対する史文恭も陣を敷くが、動かない。

 いや動けない。史文恭は歯嚙みをする。

 ぬかったわ。掘らせた落とし穴が、自らの枷になるとは。東西からの喚声がやけに聞こえてくる。

 その時、曾頭市の伏兵が戻ってきた。

 何が起きた。史文恭が叫ぶ。

 伏兵が背後から襲われ、山から出てきたという。

 呉用は敵の動きを読み、騎兵を送っていた。騎兵に追われた曾頭市の伏兵が落とし穴に落ちてゆく。

 おお、と歓声を上げる宋江の横で、呉用はただ羽扇をくゆらせていた。

 穴の存在が露見していたという事か。ならば仕方あるまい。

「進めい。奴らを根絶やしにするのだ」

 史文恭が陣を動かした。

 だが、落とし穴が、と兵のひとりが言った。即座にその兵の首が飛んだ。

 史文恭の持つ刀からは血の雫。

 野良犬を見るような目で静かに、冷徹に言った。

「いま一度だけ言う。進め」

 うわあ、と悲鳴とも雄叫びともつかぬ叫びを上げ、曾頭市軍が前に出た。

 穴に落ちながらも進む曾頭市軍。だが梁山泊軍は決して落ちることなく進んでくる。 時遷のつけた印のおかげだ。

 本隊がぶつかるその寸前、梁山泊軍の中から車が押し出されてきた。車には粗朶や硫黄などが積まれていた。

「行くぜ、兄貴」

「よし、押せい」

 解宝が部下たちと火を付けて回り、解珍の号令で車を勢いよく押し出した。

 呉用がちらりと公孫勝を見る。

 公孫勝が文言を唱え、古定剣を指し出す。

 風が勢いよく吹き始め、曾頭市軍に向かって炎が伸びる。さらに炎と共に黒煙が曾頭市軍を襲う。炎は兵だけではなく柵や門なども舐めつくした。

 史文恭は撤退の鉦を鳴らした。

 炎と梁山泊に追われ、曾頭市軍はかなりの被害を受けた。

 南門もかなり損傷してしまい、修復作業は夜通し続けられた。

「私が奴らの首領を討ってきます」

 翌朝、鼻息も荒く曾塗が吠えた。四人の兄弟もそれに呼応する。

 初戦の敗退がよほど悔しかったのだろう。五虎を、曾弄も抑えきれぬようだ。

 仕方なく、出陣をさせることにした。

 颯爽と馬を駆り、曾塗が戦場へ出る。対するは呂方である。

 槍と方天画戟が何度もぶつかる。すでに三十合ほど打ち合い、両者互角に思えた。

 だが曾塗が雄叫びをあげた。その攻撃の勢いが増し始めた。負けてたまるものか。その想いが、均衡を破った。

 呂方の画戟が乱れた。疾風の如き槍が頬をかすめた。

 馬から落ちそうに前のめりになっていた郭盛が、飛びだした。曾塗の攻撃を画戟で弾く。

「おい、負けそうになってるんじゃねぇぞ」

「すまん、郭盛。こいつ、強いんだ」

「強いんだ、じゃねぇ」

 そう言いつつ、郭盛が曾塗を攻撃する。

 畳みかけたい曾塗だったが、さすがに二対一では分が悪い。

 呂方と郭盛が同時に得物を振り上げた。曾塗はそれをよく見ており、槍を横薙ぎに払って弾いた。

 その時、呂方と郭盛が声を上げた。二人の画戟の房が、またも絡み合ってしまったのだ。

 思わず宋江と花栄が顔を見合わせた。双頭山の再現ではないか。

 すぐに花栄が馬を飛ばし、あの時と同じように房を解くべく、矢を放った。

 矢は房を見事に打ち抜き、解き放った。

 おお、と梁山泊から感嘆が漏れた。

 しかし隙を逃さず、曾塗が槍を放っていた。狙いは呂方の首だ。

 だが槍はあらぬ方向を突いた。

「なんだと」

 曾塗の左腕に、矢が刺さっていた。

 花栄の矢は房を解くためのみならず、さらに曾塗を狙ってもいたのだ。

「さすがは小李広」

 宋江が喝采を送る。

 曾塗は呻きながら槍を手放してしまった。そこへ、赤と白の画戟が同時に突き出された。

 画戟に貫かれ、憎々しげな目を呂方と郭盛に向け、曾塗は馬から落ちた。

「山賊め」

 という恨めしげな声を残して。

「兄者」

 涙まじりの雄叫びを上げながら一騎が疾走してきた。

 曾家の五虎、末の弟の曾昇であった。

 史文恭と蘇定が止めるのも聞かず、飛びだしたのだ。

 馬を進めようとした秦明の横を黒い風が通った。

「うおおおお」

 と叫びながら駆けるのは李逵だ。両手の斧を振り回しながら走る様は、まさに黒旋風だ。

 曾昇は配下の兵に、矢を射るよう命じた。

「まずい」

 そう叫んだのは項充だ。

「何をしている、行くぞ、項充」

 言うが早いか飛びだす李袞だったが、やはり遅かった。

 乱れ飛ぶ矢の一つが、李逵の腿に突き刺さった。李逵は体勢を崩し、地面に転がってしまった。

 剣を上げ、曾昇が真っ直ぐ駆ける。李逵を救うため、項充、秦明も駆ける。

 続く矢は、李袞の団牌が防いだ。

「大丈夫か、李逵」

 背に李逵を守りつつ標鎗を放ち、射手を二人仕留める。

 突撃しようとした曾昇だったが、兵たちに止められた。その兵も、項充の飛刀に倒れると、やむなく曾昇は引き返した。

「兄者の仇を討つのだ」

「守ってばかりいては、奴らを調子づかせるだけです」

「先生の力があれば、怖いものはありません。どうか」

 曾昇の戦いを見ていた曾密、曾索、曾魁が口々に訴える。蘇定までがすがるような視線を史文恭に送る。

 史文恭は身じろぎもせず、それを受け止めていた。やがて静かに言った。

「わかりました。討って出ましょう」

 おお、と叫び、兄弟たちが飛び出してゆく。

 史文恭は家人に鎧を持って来させ、馬を出させた。

 戦場に史文恭が現れた。

 沸き立っていた梁山泊軍が一瞬にして静まった。

 あの男だ。

 晁蓋の命を奪った男だ。

 見事な馬に跨る史文恭。段景住が奪われたという照夜玉獅子だ。

 晁蓋の仇。梁山泊の誰もが、そう声を出そうとした。だが史文恭から放たれる圧倒的なまでの威圧感の前に、それができないでいた。

 前回、刃を交えた鄧飛が思いだす。あの時と同じ、うすら寒いものが背を駆け抜ける。

 だが、その張り詰めた空気を破らんばかりに大音声が轟いた。

「貴様が史文恭か。わしの名は秦明。いざ尋常に勝負しろ」

 まさに霹靂。史文恭に向かって狼牙棒を振り上げ、突進してゆく。

 それに鼓舞されたように梁山泊兵たちも駆け始めた。

 史文恭が馬を飛ばす。秦明が瞬きふたつする間に、距離を詰めた。

 これほどまでの馬だとは。狼牙棒を振るが、間に合わない。

 史文恭が放った神速の槍が、秦明の腿を抉った。

 秦明が前のめりに馬から落ちる。そこへ曾頭市兵と、馬を返した史文恭が襲いかかる。

 秦明は動けない。史文恭の槍が光る。

 だがすんでのところで、槍の柄に鉄鏈が絡みついた。

「また、お前か」

 鉄鏈を握る鄧飛にちらりと目を向けただけで、史文恭はさして動じてないようだ。史文恭は槍をあっさりと捨て、刀を抜いた。

 だがこれで良い。この一瞬で良かった。

 史文恭を、二つの戟が襲った。しかし呂方と郭盛の攻撃を難なくかわし、史文恭はまだ秦明に向かう。

 しかしその前に馬麟が待ち構えていた。呂方と郭盛も後ろから追いすがる。

 史文恭は身を低くすると馬を速め、向きを変えた。

 馬麟と秦明の脇を、疾風が駆け抜けていった。

「秦明どの、大丈夫かい」

 馬麟が秦明を鞍の後ろに乗せてやる。腿の傷は深いようだ。血が流れ続けている。

「すまぬ。しかしこれほどの腕とは」

 林冲や呼延灼に聞いてはいた。あの二人をして、強いと言わしめるとはどんあ男かと想像していた。だがその想像以上だった。

 その夕刻、宋江と呉用が話し合っていた。

「秦明は梁山泊へ戻すのだな」

「仕方ありません。その代わり、援軍の要請をしたいと思います。関勝と徐寧、あとは凌州の二人あたりと考えておりますが」

 うむ、と宋江が頷き、呉用が悩むような表情を見せた。

「どうした」

「今夜あたり、夜襲の備えをしておいた方が良いかと」

「来るというのか」

 梁山泊はあえて攻撃せず、数日間包囲する事で曾頭市の神経を消耗させる策だった。

 今日、ついに向こうから仕掛けてきた。そして史文恭まで引きずりだした。

 相手は焦っている。さらに曾塗を討ち取られた怒りをぶつけてくるだろうと、呉用は言う。

 はたして呉用の予感は当たった。

 空の陣地へ攻め寄せた曾索は慌てふためいた末、解珍と解宝に仕留められた。

 曾弄は泣き叫び、史文恭と蘇定を責め立てた。

 しかし二人は曾索の夜襲を知らなかった。曾密が言うには、史文恭に言えば止められるからと、兄弟たちだけで決めたのだという。

 その結果が、曾索の死である。兄弟はその事実を受け止めざるを得なかった。

 史文恭は怒りはしなかった。ただ残された曾密、曾魁、曾昇を哀れな目で見るだけだった。

 宋江の元へ驚くべき報告が届けられた。

 ひとつは凌州と青州から援軍が派遣されるようだという事。

 そしてもうひとつ、それは曾頭市からの和議の申し入れだった。

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