top of page

新生

 一体どういう事だ。あの林冲をやむなく入れてからというもの面倒事ばかりだ。杜遷や宋万もその気になりおって、生辰綱を奪おうなどと言い出す始末だ。なんとか俺が説得したから良かったものの、今度はなんだ。本当に生辰綱を奪いおった奴らが来てしまうとは。 晁蓋だと。東渓村の保正風情が大それた事をしでかしおって。それに引き連れてきた連中も妙な奴らばかりではないか。赤茶けた髪の鬼のような男。近くの石碣村の三兄弟は梁山泊に良い思いを抱いておるまい。それに公孫勝とかいう男は道術を使うだと、そんなものがあってたまるか。何より書生風のあの男だ。呉用とか言ったか、涼しげな顔をしておきながら何を考えているのかまるで分からん。だが俺とて伊達に長年ここで頭領をしてきた訳ではない。気をつけるのは呉用だ。あの目、心の奥で値踏みをしている目だ。明日の朝、体(てい)よく追い出してしまおう。あんな奴らがここにいては俺の権威などあっという間に奪われてしまう。それだけは避けなければ。俺は頭領なのだ。梁山泊の頭領なのだ。杜遷も朱貴も宋万も、林冲もだ。これ以上何を望むというのだ。お上に煩わされずに美味いものを食い、そこそこ良い暮らしをさせてやってるではないか。晁蓋らを受け入れては、官軍が押し寄せるのは必定。お上と事を構えるなど危なくてできるものか。大丈夫だ。いつものように追い払えば良いだけだ。この梁山泊は俺のものだ。疫病神どもは追い払わなくてはならぬ。俺の梁山泊に、奴らはいらぬ。梁山泊は俺のものだ。誰にも奪わせはしない。梁山泊は俺のものなのだ。

 

 やがて夜が終わり、東の空が白々と明るさを増してゆく。

 朝靄がほのかに残る中、雀たちの小気味よい囀りが聞こえる。

 寝台から起き上がった林冲は窓の外を見た。手下たちの住居が一望できる。ところどころから煙が立ち始めた。朝飯の支度を始めるのだろう。

 昨晩、晁蓋や呉用たちと話した事を思い返す。王倫が彼らを追い出すような事があれば、と言ったが、十中八九そうなるだろう。

 林冲は壁掛けから短刀をとり、それを懐へとしまい込んだ。

 外へ出て目を閉じると、新鮮な空気を吸い込み体に巡らせる。

 再び開いた林冲の目は青面獣と死闘を演じた時の、そして陸謙を殺した時と同じ、獣のものになっていた。

 

 山の南にある水亭で酒宴が行われるという。

 日も昇り、何度か使いの者が催促に来た後、晁蓋らはそこへ向かった。

 王倫や林冲らは既に揃っており、すぐに宴が始まった。

 晁蓋は景色の見事さを褒め、王倫の機嫌をとりつつ仲間入りの話を促した。だがやはり王倫はのらりくらりと話をそらし、核心には触れようとしない。

 呉用が横目で見ると、林冲が王倫を見据えていた。他の頭目たちもどこか不満げな表情のようだった。

 やがて昼を過ぎる頃、王倫は席から立ち上がり、大仰に両手を広げた。

「晁蓋どのとそのお仲間がこの山寨にやって来られた事は、誠に光栄の至りです。私としても、ぜひ迎え入れたいのですが、ここは糧食も十分ではなく、また建物も整っておりません。あなた方のような竜には、この水たまりは狭すぎましょう。もっと大きな寨へ行かれた方があなた方のためです。つきましては些少ではありますが、私からの気持ちです」

 と、手をたたき手下を呼んだ。

 現われた手下の持つ大きな盆の上には、大きな銀塊が五つほど乗せられていた。

 ぴくり、と林冲の眉が動いた。

「王倫どの、どうかお考え直しを。われらは一兵卒としてここに置いていただければ、それで幸い。決して頭領を煩わせたりはいたしませぬ」

 晁蓋は、盆の上の銀塊を見て続けた。

「お気持ちはありがたいのですが、私らも小遣い銭くらいは持っております。お気遣いなさらぬよう」

 王倫は目を細め、思う。

 煩わせぬ、だと。すでに面倒事を背負いこんでるではないか。官軍がここを襲いに来たらどうするというのだ。しかも馬鹿を言うな、生辰綱を奪っておいてあれが小遣い銭だと。思い上がりもはなはだしいわ。

 王倫が口を開こうとした時、それを遮るように怒声が水亭に響き渡った。

「貴様はまた同じ事を言って、彼らを追い出そうというのか、王倫」

「な、林冲、貴様」

 なんとか王倫は怒りを押さえた表情だ。

「貴様、頭領に向かって、何という言い草だ。わきまえよ」

 林冲が椅子を倒し、王倫に掴みかかろうとする。まさに豹のような動きだった。

 だが素早く呉用が間に入って、それを制した。手にした銅鎖を回していた。

 それが合図だったかのように、彼らは動いた。

「仲間内での争いはおやめなさい」

 晁蓋と劉唐が王倫の脇を抑える。阮小二は杜遷、阮小五が宋万、そして阮小七が朱貴の脇につき、動きを抑える態勢となる。

「私たちのために仲間割れをしないでください」

 と、公孫勝もとりなすふりをして、手で印形(いんぎょう)を形作る。

 林冲が咆哮する。

「今日という今日は許さんぞ。柴大官人に恩義ある身でありながら、俺が来た時も何だかんだと御託を並べおって。また天下の好漢が来たのに、そうやって追い払おうとするのか。この梁山泊は貴様だけのものではない」

 王倫は蛇に睨まれた蛙の如く動けない。いや豹に睨まれた書生というところか。

 さらに逃げようにも晁蓋と劉唐に道をふさがれているのだ。

 進退極まった王倫は手下たちをけしかける。

「ええい、謀反だ。これは謀反だぞ、林冲。者どもかかれ、こ奴らを取り押さえるのだ」

 王倫の言葉もむなしく、誰一人として動く事がなかった。いや、できなかった。

 林冲の実力は誰もが知る所、あえて怒り狂う豹の前に身を差し出す者などいなかったのだ。

 杜遷、宋万、朱貴も林冲を止めようとしたが、動けなかった。阮三兄弟がそれをさせなかったためでもあり、また彼らの胸の内にも林冲の言葉に共感する所があったからだ。

 林冲が懐から短刀をとりだした。

 呉用が道を空ける。

 王倫の鳩尾(みぞおち)に深々と刃が突き刺さる。

 熱い。王倫はそう感じた。

「王倫、お前にはこの梁山泊は広すぎたのだ」

 林冲が再び手に力を込めた。

「俺の、俺の、梁山泊だ」

 王倫はそう呟いていたが、口から出る血で、ごぼごぼという音になり、やがてそれも聞こえなくなった。

 倒れた王倫の瞳には、広大な梁山湖が映っていた。

 

不思議と悲しみはなかった。

 遅かれ早かれ、こうなる予感はしていた。

 杜遷が梁山泊に王倫と共に来たのは、何年前になるだろう。

 国の悪政に嫌気がさし、この梁山泊に旗を掲げた。

 お互い若かった。

 毎晩、酒を酌み交わしては、国を変えてやろうと夢を語っていたものだ。

 役所や悪徳庄屋を襲って金品や糧食を奪った。貧しい者のために、という思いが同調者を集め、入山希望者は日を追うごとに増えていった。

 五百人を越えたあたりだろうか。王倫の心に変化が現われたのを、杜遷は見逃さなかった。

 王倫は自分の事を頭領と呼ばせ始めた。

 杜遷は入山前から、兄貴と呼んでいたが、他の者に示しがつかないから、という理由で彼にも強要した。

 次第に役所だけではなく、通りかかる旅人まで襲うようになっていった。

 あの時の誓いは、貧しい者を助け、国を変えようという誓いはどうしたのだ。杜遷は一度本気で諌めたが、王倫は聞く耳を持たなかった。

 あの時、杜遷の知っている王倫は死んだのだ。

 王倫の心変わりを止められなかった杜遷は、それを自分の罪であるかのように感じ、元々寡黙だった彼をますます寡黙たらしめた。

 目の前に王倫が倒れている。

 林冲が短刀で王倫の首を掻き切り、それを掲げた。

 安らかに眠ってくれ、兄貴。

 杜遷の心の枷が、今はずされた。

 

 林冲の手首のあたりが血で染まっている。掲げているのは王倫の首だ。

「見よ」

 林冲が叫ぶが、群衆は黙したままだ。

「この王倫は梁山泊を私物化し、己の権力のためだけに利用していた。それでは国の奸賊どもと何ら変わりはない。私を含め、ここへ来た者たちは国から、世間から追われた者ばかりだ。この梁山泊は、ここに住まうすべての者たちのためにある」

 静寂の中、杜遷が林冲へと近づいて行った。

 王倫の首を見やり、少しだけ悲しそうに口元を歪めた。杜遷が手下たちの方に向き直ると、右手を上げた。

「王倫は死んだ。いろいろ思う者もいるだろう。だが、この梁山泊は変わらねばならない時にあった。そして今、生まれ変わるのだ」

 王倫の横柄な態度、配下の者を駒としか見ていないようなその視線に、彼らも不満を抱いていない訳ではなかった。その不満を受け止め、和らげていたのが杜遷だった。

 その杜遷の言葉は重かった。王倫の側で、誰よりも耐えていたであろう彼の言葉は、何にもまして重みがあった。

 誰からともなく声があがりはじめ、やがてそれは梁山泊全体をどよもす歓声となった。

 杜遷の言葉は手下達に向けてというより、己自身に言い聞かせているようだ、と呉用は思った。

 頭領を殺された事で、予想されていた騒動が起きる事はなかった。多少の荒事は覚悟していたが、そこへ再古参の頭目である杜遷が手下に向けて言葉を送った。

 王倫の命ひとつ。

 結果的に、呉用が描いていたうち最上の展開となった。王倫の独善さが呉用の予想以上だったという事か。

 それでは仕上げだ。

 血に濡れた寨主の床几を林冲の側へ運び、呉用は叫んだ。

「今日からは林冲どのが、梁山泊の頭領だ」

 歓声が一気に大きくなる。

 ところが驚いたのは林冲だ。

 昨晩、晁蓋を頭領に、という話になっていたではないか。

「待ってくれ」

 と、慌てて手を振り一同を静かにさせた。再び訪れた静寂の中、一同が林冲の言葉を待つ。

「私は決して頭領の座が欲しくてやったのではない。第一、私は棒や槍をいじくるのは多少できるが、人の上に立つなどもっての外だ」

 そして林冲は晁蓋を示した。

「今ここに晁蓋どのがおられる。名を聞いた者も多いだろう。東渓村で保正をしており、義を重んじ財を疎み、情に厚いお方だ。私はこの晁蓋どのを新しい頭領に、と考えているのだ」

 豪傑は、と問えば一番に出てくるほど、晁蓋の名は、梁山泊でも知らぬ者はないほどだった。しかもあの生辰綱を奪い取ったというではないか。頭領となるのに何の不足があろうか。一同は再び歓声を上げた。

 だが晁蓋は困った顔をして言う。

「いやいや、わしは昨日今日やって来た新参者だ。昔から言うではないですか、強い客も主(あるじ)をしのがずと。そんな大それた事はできません」

 だが林冲とて引く訳にはいかない。何度かやり取りを繰り返し、結局は晁蓋が承知する形となった。

 寨主の床几から晁蓋が一同に向けて言った。

「わしはこの梁山泊を一目で気に入った。明媚な景色にして、堅固な要害でもある。ここをわしらのような者たちのために、さらに大きくしようと思っておる。だが、梁山泊の事については皆の方が良く知っている。托塔天王などと呼ばれてはいるが、わしとて人間だ。知らない事もあるし、間違う事もあろう。その時は上下の差など関係ない。厳しく諌めてくれるようお願いする」

 頭を下げる晁蓋を見て、林冲は間違いではなかったと思う。

 晁蓋自身も言ったが、昨日今日やって来た者を、たとえ名声があったとしても、頭領に据えるのには、心情的にも抵抗はあるはずだ。

 昨晩話したように、林冲自身は頭領になる気はない事は分かっていた。だからこそいきなり晁蓋を据えるのではなく、林冲をして一同を納得させ、保証を強くしておく必要があったのだ。

 歓声を上げる一同を前に、呉用も満足げな顔をしていた。

 だがその表情は揺れる羽扇に隠れされて、誰も伺う事はできなかった。

bottom of page