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反旗

「田虎をどうにかしたいでしょうね、府尹さま」

「そうだな。できるものならばな」

 威勝の府尹と鄔梨が酒を酌み交わしている。

 普段から袖の下を贈ることに余念のなかった鄔梨は、府尹にも取り入っていた。

 鼻を鳴らし、府尹は不満な様子を隠そうともせず、酒をちびりとやった。

「しかし捕らえようにも奴らは強力で、しかも山に隠れてしまうからな」

「ここだけの話ですが」

 と鄔梨が袖で口元を隠すような仕草をした。府尹は周囲の者を下がらせ、耳をそばだてる。

「田虎が潜伏している根城を知っているのですが」

「なんと、それは本当か、鄔梨よ」

「しっ、府尹さま。お声が大きゅうございます。田虎の手の者がどこで聞いているか分かりません」

 なんと、とまた大声を上げそうになるのを堪え、府尹が周囲を見回す。

 そして鄔梨の顔を見て、気付いた。

「おい、いかにお主でも言って良い冗談と悪い冗談があるぞ」

「これは失礼いたしました。いやしかし、それほどあの田虎が力を持っていることは疑いのない事です。はやく府尹さまに何とかしてもらわねば、私も枕を高くして眠れません」

「まあ良い。しかし、どうしてお主が知っているんのだ」

「府尹さまのために、懐に入ったふりをしていたのですよ」

「ううむ、でかしたぞ、鄔梨よ。今後もお主の商売は安泰だと思うが良い」

 かくして鄔梨が、田虎が潜むという山へ先導してゆく。

 膝よりも高い草をかき分け、兵たちは汗まみれである。

 日がかなり西に動いた頃、寨らしきものが見えた。

 あそこです、と鄔梨の言葉に兵たちの間に緊張が走った。それぞれ刀を抜き、腰を落とす。じわりじわりと寨へと近づいてゆく。こうなると長い草は頼もしい味方となる。

 隊長が、もう一度鄔梨に確認しようと顔を上げた。だが、鄔梨が見当たらない。隠れているのだろうか。

 そして顔を寨に戻した。

 その瞬間、額に矢が突き立った。

 それを見ていた兵たちが騒ぐ。そこへ矢の雨が降り注いだ。

 抵抗することもできず、兵たちは骸と化した。

 いつの間にか、その場に鄔梨がいた。転がる兵たちを満足げな顔で見ている。

 突如、鄔梨の足首が掴まれた。息も絶え絶えだが、兵の一人が生きていたようだ。

「驚かすなよ」

 と驚いた様子もなく鄔梨が言う。

 兵は憎しみを込めた目で鄔梨を見、必死に言葉を絞り出した。

「だ、騙したな、貴様」

「何を言う。騙してなどいないさ。わしはお前たちを、ちゃんと田虎の元へ案内したではないか」

 鄔梨が寨の方向を顎で示した。

 そこから一人の体格の良い男が姿を見せた。鄔梨に軽く手で挨拶をすると、こちらへ歩いてきた。

 兵が荒い息を、さらに荒げた。

 田虎であった。

 田虎がその兵を見下ろし、口の端を歪めた。手には刀。

「ご苦労だったな」

 田虎が躊躇うことなく、その刀を振り下ろした。

 

 田虎討伐の結果はどうなったのだ。

 威勝府尹はまだかまだかと、その報告を待っていた。いたずらに酒の数が増えてゆく。

 昼をかなり過ぎたころだ。役所の外が騒がしくなった。

「来たか」

 兵が入ってきた。だがその兵は血に濡れていた。府尹を見つめながら、両膝をついた。

「な、何事だ」

「お、お逃げください。奴らが」

「奴らとは、誰だ。何があったのだ」

 それに答えられずに、兵は床に崩れ落ちた。だがその答えを、府尹はすぐに知った。

 大勢の足音が聞こえた。府尹は逃げようとしたが、できなかった。

 入ってきたのは、いかにも野蛮そうな男たちであった。その中央のひと際体の大きい男が、嫌な笑い声を上げた。

「あんたが、府尹だな。俺は田豹だ」

 田豹、確か田虎の弟だ。

 まさか、と府尹が後(あと)ずさる。田豹が再び嫌な笑い方をする。

「どうしてだ、って顔をしてるな。教えてやるよ」

 すべて鄔梨の策略であった。

 府尹は奥歯が砕けるほど噛みしめた。鄔梨が憎い。それ以上に、あの男を信じてしまった自分が憎かった。

 兵の主力を田虎討伐に向かわせていた。そして手薄になった所を襲われたのだ。

 田豹が近づいてくる。

 府尹は立ち尽す。

「あばよ」

 床が、赤く染まった。

 

 田虎と鄔梨。

 強力な力と充分な金。

 かくしてて田虎は、威勝を我がものとした。

 折しも河北の地を旱魃が襲った。人々は飢え、その心も荒れた。役人たちは、困窮する民衆に目もくれない有り様だった。

 喘ぐ民にとって田虎は救いの神だった。

「腐った役人どもに天誅を」

 扇動された民衆の力も手伝い、田虎は勢力を大きくする。もはや軍と言っても良いほどだ。

 田虎は、皮肉なことに、次々と官軍を打破する梁山泊にも触発されたようだ。河北の梁山泊を目指したのだろうか。各地から豪傑、好漢と呼ばれる連中を集め出したのだ。

 州郡を順調に攻め落とし、役人の代わりに配下を置くことで支配地を広げた。

 田虎の勢いは止まらない。

 官軍が梁山泊との戦に力を削がれていたせいもあるのだろう。ほとんど邪魔する者もなく、汾陽、昭徳、晋寧といった黄河の支流一帯を支配圏としてしまう。

 さらに蓋州まで陥落させ、五州五十六県をその手に納めた。さらに次の獲物は衛州と定められた。

「いよいよ開封府だ。官軍はもちろん、国の狗となり果てた梁山泊など敵ではない」

 ついに田虎は支配地域を晋国と定め、自らを王と称するに至ったのである。

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