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仇敵

 威勝から百里あまり。

 田虎直々に率いる軍が布陣していた。だが本営には戦時の緊張感は無く、笑い声さえ聞こえていた。

 田虎は、威勝から連れてきた女官たちを侍らせ、酒宴を連日催していたのだ。

 従軍する李天錫、鄭之瑞といった面々は呆れるしかなかった。敵は目前に迫り、今後の趨勢を決める重要な戦いの最中(さなか)なのだ。

「なあに、梁山泊の賊どもなど、どうして怖れる事がある。わしらが着く前に卞祥が粉々にしているだろうて」

 酒に顔を赤くし、女官に色目を使う田虎は、周囲の視線に気付く事もなく己の欲を満たし続けた。

 折しも雨が降り出した。

 急いで、田虎たちは銅鞮山の南に避難した。

 予想に反して雨は長引き、兵たちの士気は徐々に削がれていった。

 何より田虎自身が鬱屈としていた。

 酒も美味くない。一気に攻め込んでいればなどと考えるが、あとの祭りである。

 さらに悲報が届く。

「国舅どのが亡くなられただと」

 鄔梨が死んだ。配下の金真による裏切り。毒殺だったという。

 田虎は嘆いたが義娘の瓊英とその夫となった全羽、それに葉清が襄垣を守っている事だけが安心できる材料だった。

 だがそれも続かない。

 楡社、介休さらには太原までも梁山泊に陥とされたという。

 慄いた田虎は全軍に命じた。

「雨が上がり次第撤退せよ。威勝で迎え討つことにする」

 そこには田虎の王たる威厳はもはや失せていた。だが雨で倦んでいた兵たちは喜んでそれに従った。

 しかし梁山泊軍が迫っていた。

 田虎は目を剥き、こめかみに青筋を浮かべた。

 敵軍の先頭に立つ将が、孫安だったからだ。

「あの恩知らずめ」

 田虎軍は威勝に向かって撤退する。だが精強な孫安軍は追いすがる。

 李天錫、鄭之瑞、薛時、林昕が後詰めとなった。胡英、唐昌の二将が田虎を守り、戦場を駆けた。李天錫らが奮闘しているおかげで、孫安軍の猛追は振り切れそうだ。

 そこへ新たな軍が殺到してきた。

「ここまでか」

 田虎は思わず天を呪った。

 しかし違った。現れたのは田(でん)の旗を立てた援軍だった。

 先頭の若者が、こちらに向かって来た。

「遅れて申し訳ございません、全羽と申します。襄垣まで護衛するので、私たちの後に続いて下さい」

 瓊英の夫という男か。

 全羽に導かれ必死に進む田虎。

 やがて梁山泊軍は見えなくなっていった。

 田虎は雨の止(や)んだ空を見上げ、歯を剥き出した。

 まだ天は見捨てていないようだ。

 

 卞祥軍は綿山の麓で雨を避けた。

 田虎直々の軍も姿を見せない。同じく雨で足止めされているのだろうか。

 呂振が言う。

「大将、いつまでこうしてるんです」

「この雨だ。敵も簡単には動けまい」

「なら雨に乗じて夜襲でも」

「駄目だ。危ない。雨を甘く見るな」

 そうですかい、と呂振は不服そうな顔で下がっていった。

 卞祥は灰色の空をじっと見つめていた。

 もう三日になる。しつこいほど長い雨だ。気持ちまで落ち込んでしまいそうだ。だが我慢だ。

 ふいに、笑い声が聞こえてきた。

 何事かと思い、行ってみると呂振や吉文炳らだった。

 その光景に卞祥は立ち尽くした。

「ああ、大将もどうです。上等じゃありませんが、肉も酒もありますよ」

 呂振が焼いた肉を頬張り、酒を流しこんだ。吉文炳が酒を持ち、呆けたような卞祥に渡そうとする。

「どうしたんですかい。腹が減っては、と言うじゃないですか」

「どこから。それは、どこから」

「え、何ですって」

「その酒は、肉はどこから」

「近所の村から拝借してきたんですよ。いいでしょう少しくらい」

 卞祥の目が一点を見ていた。

 吉文兵の戦袍についた、赤い染みだ。

「ああ、こいつですか。村の奴ら、渋るもんだから仕方なかったんで」

 言うな、という顔を呂振がしたが、間に合わなかった。

 吉文炳が吹っ飛んだ。

 拳を突き出したまま、ぎろりと呂振を見る卞祥。

 酒が入っていたせいか、呂振が喰ってかかった。

「何しやがる。俺たちの領地だぜ。あいつらは俺たちの物だろうが」

 上下の別も無い言葉に戻っていた。

 所詮、山賊か。呂振も吹っ飛んだ。

 手下たちが慌てて逃げてゆく。

「お前たちもどこかへ行け。二度と戻ってくるな」

 血を流し呻く二人を見て、卞祥は悲しそうな目をした。

 お前は悪い奴じゃない。

 史進という男の言葉が、ふと浮かんだ。

 これでは、あの時の州兵と同じではないか。

 俺は、俺は。

 史進の言葉が消えず、眠れぬ夜を過ごした。

 雨の音が小さくなっているのが分かった。

 

 眩しさに目を開けた。

 いつの間にか眠っていたようだ。

 日が照っている。

 止んだか。卞祥はぽつりと呟いた。

 そうだ、梁山泊軍を討たねばならない。

「起きろ。準備がすんだら出陣だ。早く」

 卞祥が固まる。

 兵がほとんど、いなくなっていた。

 もう準備を済ませているのか。いや、そうではない事は卞祥が一番分かっている。

「ご覧の通りです。どうしますか」

 菅琰(かんえん)が皮肉そうな顔で言った。

 呂振、吉文炳は安士隆を連れ、夜の内に逃げていったという。残ったのは、この菅琰と傅祥、寇琛そしてわずかの兵だけだった。

「そうか。よく残ってくれた」

 そう言うのが精一杯だった。

 そしてひとり、甲を着込みはじめる。

「卞祥の旦那、どこ行くんで」

「俺だけでも戦ってくる。お前たちは待っていろ」

「無茶ですって。一人で行くなんて」

「無茶はわかってる。でも行かねばならん」

「卞祥の旦那」

 菅琰が鼻をぐすりと鳴らした。

 そこへ慌てふためいた様子の傅祥と寇琛が駆けこんできた。

「た、大変だ」

「敵に、梁山泊がすぐそこに」

 よし、と卞祥は開山大斧を握る。だが三人が必死に押しとどめようとする。

「どうしてどこまでする。お前たちはたまたま俺の隊に配されただけだろう」

「どうして、って」

 顔を見合わせる三人。

「俺たち元は山賊ですが、好きでやってた訳じゃあないんです」

 菅琰も傅祥、寇琛も、やむにやまれず落草した身なのだという。その点、生粋の山賊であった呂振らとは違うという。

「旦那は良い人だ。さっきも、俺たちに待っていろなんて言いましたが、本当は逃げろと仄めかしていたんでしょう」

「俺たちは卞祥どのが好きなんです。だから無駄に死にに行かせたくないんだ」

 菅琰、傅祥が滔々と告げる。

 卞祥の心は揺れたが、それでも決意は固い。

 すると寇琛が、

「綿山だ。ちょうど良い山があるじゃないですか。どうせなら山中で迎え討つっていうのはどうです」

 卞祥は目を細めた。どうしても行かせたくないための嘘だ。

「わかった。少数でも山の中なら対抗できるかもしれないな」

「そうと決まれば」

 菅琰と傅祥が檄を飛ばし、兵たちを山に登らせる。

 中腹辺りのやや開けた場所に、陣を敷いた。陣とも呼べないものだったが。

 はたして梁山泊軍はここへ来るのだろうか。どうせならば思い切り戦って果ててやろう。卞祥はそう決めていた。

 しばらくして見張りの寇琛が駆けてきた。何か喚いている。

 来たのだ。

 立ち上がり、大斧を片手に待ち構える卞祥。後ろでは菅琰たちが武器を構えて待っている。

 大軍が来るとばかり思っていた。

 だが、綿山に登って来たのはたったの二人。

 九紋竜の史進、そして見知らぬ小男だった。史進は黙って小男の後ろを歩いていた。

 やがて足を止め、小男が言った。

 その言葉に、卞祥はじめその場の誰もが唖然とした。

「私は宋江。梁山泊頭領、宋江である。卞祥将軍、そなたとの勝負を所望したい」

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