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愛憎

 夕刻、石秀が店を片付け、潘老人に帳簿を渡しにいった。

 楊雄は今日も泊まり番で不在だという。久しぶりに飲もうと思ったのだが、残念だ。

 店へ戻ろうとすると、裏口に机が出してあった。そこへ迎児が現れ、その上に香炉を置いた。

 迎児が石秀に気づき、ぺこりと頭を下げる。

「血の匂いがするから香を焚いてくれ、と奥さまが」

 申し訳なさそうにそう言うと、迎児は家の中へと入って行った。

 潘巧雲は血の匂いが気になっていたのか。店に手伝いに来てくれていた際は、そうは見えなかったが。

 まあ、仕方あるまい。こちらも掃除など、気をつけるとしよう。

「おい」

 ふいに石秀を呼ぶ声がした。見るとそれはあの男、踢殺羊の張保だった。

「なんだ、また殴られに来たのか」

 石秀が、望むところだとばかり腕まくりをして近づいてゆく。張保は両手を広げると慌てるように言った。

「違う違う、喧嘩する気はねぇよ」

「じゃあ、何の用だ」

「へへへ、しかしすいぶん儲かってるみてぇじゃねぇか、旦那」

「関係ないだろう、お前には。だから何の用だ、と言っているんだ」

「いや、あんたも大変な家に来ちまったな、って同情してるのさ」

「大変な家とは、どういう事だ。兄貴の家がどうだというのだ」

「へへ、後はあんたが考えな。俺が忠告できるのは、ここまでさ」

 忠告だと。この楊雄の家が一体何だというのだ。

 張保はそれだけ言うと、気をつけなよ、と走り去ってしまった。

 待て、と石秀は追おうとしたが、逃げ足の速さは一品だった。足が自慢の、さすがは踢殺羊といったところか。

 その日、石秀は早々に床に入ると、悶々としながらも眠りについた。

 

 木魚の音で、石秀は目を覚ました。

 半開きの目で外を見るが、まだ夜も明けきらぬ暗闇だった。

 その中を、一人の頭陀(ずだ)が木魚を手に、念仏を唱えながら歩いていた。どうやら時を知らせる頭陀のようだ。

 目の覚めた石秀は仕方なく床から這い出ると顔を洗った。冬の冷たい水が、意識をはっきりとさせてくれる。その間に、頭陀もどこかへ行ってしまったようだ。

 少し早いが、と石秀は仕事の支度をしながら考えていた。

 先ほどの頭陀の事である。今までここへ来た事があっただろうか。表通りならともかく、ここは袋小路なのだ。

 やがて店を開ける頃となり、石秀もその事は忘れてしまった。

 一日はあっという間に過ぎ、店を閉めると石秀は掃除をいつもより丁寧にした。水を捲き、よく擦(こす)り、血の跡を流した。

 くんくんと鼻を鳴らし、匂いを確かめる。これで大丈夫だろうか。石秀は心配していたが、その日は香炉が出されなかった。

 ほっとする石秀。さらに今日は楊雄が在宅だった。

「すまぬな、いつも家の事はお前に任せきりで」

「良いのですよ、兄貴。私は仕事どころか住む所までいただいているのですから、当然のことです」

 石秀は久しぶりに楊雄と飲む事ができ、本当に嬉しそうだった。

 潘巧雲が酒肴を並べ、奥へと消える。去り際に、

「あまり遅くまで飲まないでくださいね」

 と醒めるような事を言った。楊雄は潘巧雲の背を見るだけで、何も言わなかった。

 ひとしきり飲んでいると、話は二人の出会いに及ぶ。楊雄が石秀の義気を褒め、改めて乾杯をする。

 ふと石秀は、戴宗と楊林を思い出した。あの時別れて以来だが、どうしているだろうか。

「そう言えば、公孫勝という道士をご存知ではないですか、兄貴。この薊州にいるらしいのですが」

「公孫勝、か。わしも元々ここの者ではないからなぁ。ついぞ聞いたことのない名だが、その道士がどうかしたのか」

 石秀は、梁山泊が探している、とは言えず、

「いえ、ここへ来る前にあちこちで噂を聞いたものですから、そう言えばと思い出しまして。やっぱり噂にすぎなかったんですかね」

 そう答えて、その話はそれきりにした。

 楽しい時は過ぎるのが早い。

 楊雄も翌朝は早いというので、近いうちにまた飲もうと約束し、石秀は店へと戻った。

 翌朝の日が昇るまで、石秀はゆっくりと寝ることができた。

 時知らせの頭陀は、姿を見せなかった。

 

 あの日は、間違えただけなのだろうと思っていた。頭陀が石秀の店のある袋小路へやってきた時の事だ。

 しかしどうやらそれは違うようなのだ。

 あれから半月あまり経ったが、頭陀は時折やってきては木魚を叩き念仏を唱え、時を知らせては帰ってゆく。

 毎日という訳ではない。しかも決まった日、という訳でもなかった。

 あまり気にはしないようにしていた石秀だが、その朝たまたま早く目が覚めてしまった。日は当然昇っておらず、静かな闇に満ちていた。

 石秀の耳にあの音が聞こえてきた。頭陀の鳴らす木魚の音だ。

 今日も来たのか。石秀は頭陀を見てやろうと思い立った。戸口を少し開け、闇の中に目を慣らしてゆくとおぼろげながら頭陀の姿がみとめられた。

 頭陀はいつものように木魚を叩き、この袋小路へと入って来た。そして潘老人の家に向かって声を張り上げ、念仏を唱える。

 石秀は目を見張った。裏口から何者かが出てきて、頭陀と共に去って行ったのだ。体格からして男、顔は頭巾をかぶっていたため見えなかった。

 石秀は静かに家から出ると、その裏口に行ってみる。そこには机が出してあり、その上にすでに消えている香炉が置かれていた。

 石秀は、そういう事か、と拳を握りしめた。

 あれから仕事場の掃除には、血の匂いをさせないように注意を払うようにしていた。にもかかわらず時折この香炉が置かれている日があった。そしてその日には、決まって頭陀がやって来ていた覚えがある。

 石秀は思わず香炉を蹴とばそうとしたが、思い止(とど)めた。

 きっ、と二階の窓を睨み、やがて自分の家へと戻って行った。

 

「おい、何か面白くない事でもあるのか」

 州橋の袂(たもと)の料理屋で楊雄が訊ねた。向かいには石秀がいる。

 石秀は朝の仕事を終えると、楊雄を探しに役所へ向かって歩いていた。丁度そこへ楊雄が行きあい、この店へと入ったのだ。

 いつも気持ちの良い物言いの石秀が、今日は何か奥歯に物の挟まったような感じだったのだ。石秀に酒を注ぎ、楊雄が再び訊ねる。

「何か、家や仕事で不都合があるなら遠慮なく言ってくれ」

「はい、兄貴にも義父(ちち)にも本当に良くしてもらっております。ですから、言って良いものか、どうか」

「なんだ石秀、お前らしくないな。はっきり言ってくれ。お前に不満があるという事は、わしの責任でもあるのだ」

 石秀は両の手を組み、しばし思案している様子だった。楊雄はそんな石秀をじっと見つめて待っている。そしてやがて石秀が苦しそうに口を開いた。

「義姉(ねえ)さんの事、です」

 石秀は、ゆっくりと話を始めた。楊雄の妻、潘巧雲と何者かがよからぬ関係になっているのではないかという事を、あくまでも推測であるという前提で、楊雄に話した。

 時折置いてある香炉、そしてその翌朝に頭陀が決まってやって来ること。

 そしてそれは、楊雄が泊まりの番で不在の日である事。

 さらに昨日見た、潘巧雲の家から出てきた、頭巾をかぶった男。

 話終えた石秀は、ゆっくりと深く息をついた。

 楊雄は話の最中(さいちゅう)も時折眉をぴくりと動かすだけで、特別取り乱すような事はなかった。聞き終えた楊雄は杯に軽く手を触れ、長め閉じた目を開けると静かな声で石秀に言った。

「わしは妻を信じている。だが同じようにお前の事も信じている。心配をかけてしまったな、すまなかった」

 わしが直接確かめる、楊雄は毅然と言い放つと杯を空けた。

 石秀は、こくりと黙って頷いた。

 その夜、楊雄は帰って来るなり寝室へと向かった。

 病関索の由来でもある、黄色い顔がいつもより赤みがかっていた。

 昼間、石秀と別れた後、楊雄は知府の棒の稽古相手をした。その褒美として、しこたま飲まされたのだ。さらに石秀の話の件があったからだろうか、少し酒を飲み過ぎたようだ。

「大丈夫ですか、あなた。何かあったんですの、そんなにお飲みになって」

 寝台に腰をおろした楊雄に潘巧雲が水を手渡した。

 それをぐびりと飲み干し、酒臭い息を吐き出す。

「巧雲、何か言いたい事はないか」

「何ですの突然、おかしな人」

「仕事で家を空けがちなのはすまないと思っている。しかし、それはお前を信じているからなのだよ」

「はいはい、ありがとうございます。やっぱりお酔いになってらっしゃるのね。早くお休みになってくださいな」

 巧雲、と楊雄が怒鳴るように言った。

 びくり、とする潘巧雲。

「ど、どうしたんです。そんな大きな声を出さないでくださいませ。びっくりするじゃありませんか」

「わしはお前の事を、王の奴から託されたのだ。頼むから、奴のために不義理な事はしないでくれ」

 がしゃん、と激しい音がした。潘巧雲が持っていた盆を床に落とし、徳利や杯などが割れた。その目からはとめどなく涙が溢れていた。

 巧雲、と楊雄はそれ以上言葉が出てこなかった。

 それを睨みつけるような潘巧雲。

「不義理ですって、何の事を言っているの。わたしがいつそんな事をしたというのですか。そうだわ、あの石秀とかいう男に何か言われたんでしょう。あいつはここへ来たばっかりじゃない。なのにあなたの事を義兄(ぎけい)さん義兄さんってすり寄ってばかりで。父さんにまで媚を売って商売までただで始める始末じゃない。あの男こそ、何か良からぬ事を考えているんだわ。目を覚ますのはあなたの方よ」

「何を言う、あいつはわしの危難を救ってくれた、真っ直ぐな男だぞ」

「どうだか。大方、あの踢殺羊と組んで芝居をして、有名なあなたに取り入ろうって魂胆でもあったんじゃないのかしら。店にあの張保が来ているのを見たって言う人もいるって話だし」

「それ以上、言うんじゃない」

 ぱん、と乾いた音が響いた。楊雄が潘巧雲の頬を張った音だった。

 頬をおさえ、愕然となりながら潘巧雲は楊雄を睨んだ。

「やっぱり、わたしなどどうでも良いのね。わたしよりもあんな男の言う事を信じるのね」

 はばかることなく涙を流すと、潘巧雲は階下へと走って行った。

 楊雄は、潘巧雲を張りつけた手をじっと見つめていた。

 とても武骨な手だ、と思った。

 

 石秀は立ち尽くしていた。

 店を開こうと来てみると、その店が壊されていた。

 先日の法要の時のような感じではない。仕込み台も調度品も叩き壊されていたのだ。

 深く溜息をついた石秀は、家へ戻ると荷物をまとめた。

「短い間でしたが、お世話になりました」

 石秀は一人そう呟いて、楊雄の家に向かって頭を下げた。

 くるりと背を向け、大股で歩き出す石秀。

 大変な家に来ちまったな、という言葉が思い出された。

 あの男ならば、真相を知っているはずだ。

 踢殺羊の張保ならば。

 やっと起き始めた朝の町の通りを、拚命三郎の石秀が駆けてゆく。

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