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愛憎

 王押司は気持ちの良い男だった。

 薊州に来たばかりの楊雄を気にかけては、面倒を見てやったりしていた。

 楊雄もどちらかというと、口が達者な方ではない。それで周囲の誤解を招く事もあったのだが、実直で真面目な仕事ぶりを知っていた王押司が楊雄の良さを広めてくれたのだ。病関索(びょうかんさく)という渾名をつけてくれたのも王押司だった。

 感謝した楊雄は王押司と友人となり、いつしか兄弟のような関係となっていった。

 王押司には妻がいた。潘巧雲という、良く笑う美しい女性だった。

 潘巧雲と王押司は似合いの夫婦で、楊雄も酒に招かれるたびその仲睦まじさに嬉しくなるほどだった。

 だが突如、その幸せが打ち砕かれた。

 白昼堂々、王押司が往来で賊に襲われた。報せを聞いて駆け付けた楊雄は、血に濡れて息も絶え絶えの王押司を抱きかかえた。

「早く医者を」

 何度も叫ぶが、一向に来るようすがない。

 絶望する楊雄を、王押司が優しい目で見つめた。

「わたしは、もうだめ、だ。お前の、ような男と、知り合えて、本当に良かった」

 今にも消え入りそうな声で王押司が囁く。

「わかった、だからもう話すんじゃない。すぐに医者が来るから」

 だが王押司はにこりと楊雄に微笑みかけた。

「妻を、巧雲を、お前に、頼んだぞ」

 そして王押司は息を引き取った。

 人々は王押司の死を悲しみ、そして堅物で知られる楊雄が人目をはばかることなく大声で泣き叫んでいたのを驚いたという。

 

 時を知らせる木魚が鳴っている。

 だがその持ち主である頭陀(ずだ)が地面に横たわっていた。首を真一文字に切り裂かれ、目が開かれたままだった。

 木魚を手にしているのは石秀だった。こもった声で頭陀の声を真似、念仏を唱えている。

 やがて楊雄の家の裏口が開いた。顔を出したのは頭巾をかぶった男だ。

 待たせたな、と言った途端、その男は石秀に首根っこを抱えられた。石秀が頭巾に手をかけた。

 その下から現れたのは報恩寺の海闍黎、裴如海だった。

 わめこうとする裴如海の首筋に刀を当て、静かにさせる。

「やはりお前だったのか。とんだ坊主だな」

「な、お、お前は、楊雄の義弟(おとうと)か」

「静かにしな、坊主。お前の企みは全部分かってるんだぜ」

 刃を、ぐいっと首に押しつける。

 はあはあ、と裴如海が苦しそうに息をした。

 店が壊された後、石秀は踢殺羊の張保を探した。あの男が、何か知っている素振りを見せていたからだ。

 すぐに張保は見つかった。はじめは、どうしようかなぁ、などと言っていたが、鬼気迫る石秀に気圧されたのかすぐに話し始めたのだ。

 黒幕はこの裴如海だった。

 まだ師についていた頃だ。寺を訪れた一人の美しい娘に心を奪われた。裴如海はまだ若く、出家しても俗心が捨てきれていなかった。何としてもあの娘の素性を知りたい、裴如海は思った。それは潘老人の娘で、亡くなった母のために血盆経の願掛けに来ていたのだという。

 さらに裴如海の願いが通じたのか、うまい具合に師から潘老人を紹介され、潘巧雲とも義兄妹(ぎきょうだい)の関係になれた。だがこれが裴如海の煩悩に火を付けてしまった。

 潘巧雲を我が物にしたい。強くそう思うようになってしまったのだ。

 だが潘巧雲には王押司という立派な夫がいた。この男がまた誠実で勤勉で人からの信頼も厚いというから、裴如海としてもいかんともしがたいのであった。

 だが、僧でありながら潘巧雲と肌を重ねたい、という煩悩は日増しに強くなる一方だった。それは海闍黎となっても変わらなかった。

 欲しい物があり、それを手に入れられないと知ると、余計に欲しくなるものだ。潘巧雲を手に入れたい。しかしそのためには邪魔な存在がひとつだけあった。

「そしてお前は賊を雇い、王押司を襲わせた。あの張保も一枚噛んでいた。だから賊は簡単に逃げおおせたのだ。間違いないな、裴如海」

 裴如海の禿頭(とくとう)から汗がしたたり落ちてゆく。企みが露見した裴如海はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。

 ふいに首を押さえつける腕が緩んだ。解き放たれた裴如海は、よろめきながらも振り向くと石秀と対面する形となった。

「念仏は自分のために唱えるんだな」

 裴如海は三度いや四度か、胸や腹に熱いものを感じた。

 石秀が持つ刀の刃が血に濡れていた。

 体から力が抜けてゆく。裴如海はあふれる血を手で押さえたが、それで止まる訳はなかった。がくりと膝を地に付けた。

 下から睨みつけるように裴如海は石秀を見た。口の中で血の味がした。

 だが裴如海は不敵な笑みを浮かべてさえいた。

「よくも、大それた真似を、したものだ」

 赤く染まった指を石秀に突きつけ、笑った。

「悔いは無い。潘巧雲を、私は手に入れたのだ。たとえ、死のうとも、な」

 最後に大きく血を吐き出すと、裴如海は事切れた。

 不敵な笑みを顔に張り付けたままだった。

 石秀はどこか釈然としない思いで、裴如海を見下ろしていた。

 

 翠屛山(すいへいざん)に楊雄、潘巧雲そして迎児の姿があった。

 薊州の東門から二十里あまりにある山だった。

「願解きをするので、翠屛山の嶽廟へ行く準備をしてくれ」

 楊雄がそう言ったが潘巧雲は、どうして私まで、と不満そうな顔をした。お前と縁組みした時のものだから二人で行くのだ、と言われ渋々迎児と紙銭や蝋燭の準備をした。

 山の中腹辺りで籠を下り、三人は歩いて上を目指した。

「どこに嶽廟があるのです」

 見るとそこには荒れ果てた塚があるだけで、一面の草原(くさはら)で風に白楊(はこやなぎ)がかさかさと揺れるばかりであった。

 楊雄が退路を塞ぐように山道に立ち、何も言わずに潘巧雲を見据えていた。

「どういう事なのですか。願解きというのは、嘘なのですね」

 それでも楊雄は黙っていた。

 店が壊され、石秀も姿を消した。

 その翌日、裴如海と頭陀の死体が発見された。頭陀は首を斬られ、裴如海は体に刺傷が数か所あったという。さらに裸同然の格好だったことから、二人は良からぬ関係でその痴情のもつれの結果だろう、と結論づけられた。

 だが楊雄はすぐに分かった。石秀の仕業だと。

 あの時、言っていたのだ。潘巧雲と裴如海が密会しているかもしれないと。潘巧雲に真相を聞けなかった自分を見かねて、証拠を掴み、実力行使に及んだのだろう。

 己も覚悟しなければならない。結果がどうなろうと、だ。

 意を決し、楊雄は潘巧雲と向き合った。

「裴如海が死んだ。時知らせの頭陀も一緒に」

 潘巧雲が驚きの声を上げ、やがて冷静な顔つきになった。

「そう、ですか」

 そうぽつりと呟いた潘巧雲の目は、楊雄さえ怖気づくような、冷酷なものだった。迎児は腰を抜かし、がくがくと震えていた。

「もう一度、聞こう。言いたい事はないか」

 その目を真正面から見据える楊雄。潘巧雲は視線をそらさずに、包みの中から何かを取り出した。

 それは包丁だった。石秀の店にあった、肉を捌くための包丁だった。それを両手で持ち、楊雄に突きつけた。

「言いたい事ですって、それはあなたの方でしょう」

「何の話だ。わしが何を言いたいというのだ」

「あの人の事よ。あなたが、あの人を殺したんでしょう。そしてまた師兄(にい)さんまで」

 あの人、王押司を、わしが殺した、だと。違う、何か勘違いをしている。

「師兄さんに聞いたわ。あなたが賊を雇い、あの人を襲わせたって」

「馬鹿な、そんな出鱈目を信じるのか。あの坊主の言う事を、お前は信じるのか」

「師兄さんは、とても優しくしてくれたわ。あなたなんかより、ずっと」

 楊雄は何も言えなかった。

 友の、王押司の遺志を継ぎ、潘巧雲を娶った。仕事に精を出し、賢明に尽くしたつもりだった。しかし、心の底から潘巧雲を愛する事ができていなかった。

 楊雄は何も言えず、立ち尽くしていた。

 

 王押司をまんまと亡き者にした裴如海だったが、すぐにまた邪魔者ができてしまった。

 病関索と渾名される楊雄である。

「奴め、漁夫の利を得おって」

 歯噛みする裴如海は思い立った。

 幸い藩巧雲は、まだ王押司への思いを消す事はできていない。それはそうだ、あれだけ愛し合っていた二人なのだ。義理で結婚したような楊雄に、今は心を開いてはいない。

 そこで、裴如海は潘巧雲に近づくと徹底的に優しく接した。愛する夫を亡くし、憔悴する潘巧雲はそれだけで、知らずと心をほだされてしまった。

 さらに、である。噂なのだが、と前置きして裴如海は告げた。

 王押司を殺した賊は、楊雄に雇われていたのだ、と。

 潘巧雲は、自分で血の気が引くのが分かるほど青ざめた。涙が止まらなかった。怒りと悲しみがないまぜになり、何か言いたいのだが嗚咽しか出てこなかった。

「わたしがついております」

 裴如海は優しく潘巧雲をを抱きしめた。

 潘巧雲は朦朧としながらも、麝香(じゃこう)の薫りを漂わせる裴如海に身を任せた。

 

 石秀が駆けつけた時、一触即発の状態だった。

 潘巧雲が楊雄に包丁を突き付けていた。自分の店にあったものだ、と石秀は思った。店を手伝いに来た時に、しげしげと眺めていた事を思い出した。

「義兄(にい)さん」

 叫ぶ石秀に掌で、来るな、と制する楊雄。

 ちらりと石秀を見る潘巧雲。

「あんたの店は私が壊させたの。あんたが来てから、全部おかしくなったのよ」

 その時に、包丁を奪って来たのだろう。もしもの時のために。

「そいつはすまなかった、義姉さん。でも張保の野郎が全部話したんだ。義姉さんの前夫を襲った賊は裴如海が雇っていたってな」

「嘘よ、嘘だわ。あんな男の言う事を信じるというの」

「本当だ。だから俺が裴如海に罰を与えた」

「あ、あなたが、師兄さんを」

 こくり、と石秀が頷いた。

「そいつを下ろすのだ巧雲。これで分かっただろう、わしがやったのではないと」

 しかし潘巧雲はさらに両手に力を込めて、楊雄を睨んだ。

「わたしは、何なの。師兄さんも、わたしを騙していたっていうの。どうしろって言うのよ、わたしに」

「すまなかった、巧雲。わしは王への義理を通す事ばかり考えて、お前の事を考えていなかったのだな。お前の心の隙間を狙った裴如海も許せぬが、その隙間を埋めてやれなかったわしも悪かったのだな」

 楊雄は着物の胸元をはだけさえ、両手を広げた。

「わしを殺せ。それでお前の気が晴れるなら、わしは死んでも構わん」

 いつも仏頂面な楊雄が微笑んでいた。

 潘巧雲は包丁の先を見つめ、同じように微笑んだ。

「できるわけないじゃない」

 くるりと刃を返すと、潘巧雲はそれを自分の胸に突き立てた。

 巧雲、義姉さん、と二人が駆け寄るが、包丁は深々と突き刺さっている。

 ここへ来たのが間違いだった。薊州まで遠く医者も間に合わないだろう。

 潘巧雲の口から血が漏れた。

 同じだ。あの日と、同じだ。

 楊雄は王押司が襲われた光景をまざまざと思い返していた。何もできない。近しい者が死に瀕しているのに何もできないのだ。

「巧雲、死ぬんじゃない。石秀、医者を、頼む、早くここへ」

 楊雄は叫んだ。石秀も、潘巧雲ですら見た事のない顔だった。

 潘巧雲が楊雄の目を見つめ、頭を垂れた。

「あなただけ、じゃない。わたしも、悪かったの。あなたを、思う事が、できなかった。たぶん師兄さんの言葉が、無くってもね。わたしは、あの人じゃなきゃ、駄目だった」

 ぜえぜえと命を振り絞り、潘巧雲が続けた。

「最期の、お願い。あの人の元へ」

 す、と立ち上がり楊雄は刀を抜いた。

 石秀が迎児の目を隠した。

「許してくれ、巧雲」

 刀が、潘巧雲の首に振り下ろされた。

 刃が首に触れる寸前、潘巧雲が何か言ったような気がした。

 しかし、それは風に揺れる白楊の音だったのかもしれない。

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