top of page

決裂

 おいおいおい、なんてこったい。

 とんだ場面に出くわしちまったもんだ。

 時遷(じせん)は草むらに潜み、顔をひょっこりと出してみた。

 目の前で女が自分の胸を刺し、さらに言い争っていた男がその女の首を切り落としたのだ。しかし大した腕だ、と変な関心をする時遷。

 まさか、あれは。目を凝らすと、その男は知っている男だった。

 かさかさと草むらを這うように近づくと、にゅっと顔を出す。

「全部見てましたぜ。一体こんな所で、何をやってたんですかい」

 驚いて声の方向を見た楊雄は、さらに驚いた。

「お前は。時遷ではないか。こんな所で何をやっているのだ」

「へへへ、最近稼ぎが少なくって、ちいとばかりここで古い塚を暴いてたんですがね。旦那の方こそ、こんな所で何を」

 石秀の、時遷への視線に気づいた楊雄が言った。

「石秀よ、こいつは顔見知りの時遷という男だ」

「石秀の旦那、ひとつよしなに。ご紹介に預かりましたが、あっしは時遷、鼓上皂(こじょうそう)なんて呼ばれてるしがないこそ泥でございます。以前、楊雄の旦那に救われまして」

 そう言いながら時遷が草むらから姿を現した。

 石秀は、時遷を痩せた男だと思った。だが良く見ると、決して骨と皮なのではなく引き締った筋肉があるのが分かった。

「石秀だ。よろしく」

 石秀に挨拶され、時遷は不精髭を生やした顎をぽりぽりと掻いた。

 時遷は高唐州(こうとうしゅう)に生まれた。

 家は貧しく、幼い頃から親のため、そして生きるために盗みをしてきた。食べ物を盗(と)ってはそれを腹の足しにし、金目の物を盗ってはそれを金に換えていた。人から盗む事は悪い事とは思わなかった。盗まれる方が間抜けなのだ。

 盗みの腕前は年を追うごとに上がっていった。また細く軽やかな体躯を活かした忍び込みの技も身に付けていった。

 屋根瓦の上さえも、まるで太鼓の上で蚤(のみ)が跳ねるように音を立てずに歩くその様から、泥棒仲間から鼓上皂と渾名された。

 時遷は各地を渡り歩きながら盗みを続けていた。しかし薊州に到り、時遷はついにお縄となった。

 少々、自分の腕を鼻にかけていた事もあったのだろう。それを妬んだ地元のこそ泥の一人が、盗みに入ろうとしている場所と日時を、役人に密告してしまったのだ。

 いかに泥棒の達人とて、待ち伏せされてはたまったものではない。あっけなく牢に放り込まれてしまった。

 薊州どころか他の土地にさえ身寄りのない時遷である。これは参ったなあ、と考えている所へ声をかけてきた者がいた。

「おいそこの男、お前が時遷だな。お前、助かりたくはないか」

 む、と眉をしかめる時遷。声は牢の外から聞こえる。どうやら牢役人らしき男が話しているようだ。

 助かりたいか、と言ったのか。そりゃあ、助かりたいに決まっているだろう。

「あいにく手持ちも無いし、知り合いもいないんでさあ。あっしも一巻の終わりってこってす。身から出た錆(さび)ってやつですよ」

「そうか。ならばわしがお前の肩代わりをしてやろう」

 へ、と間抜けな声を出してしまった。どうして縁もゆかりも無い牢役人が、自分を助けてくれるのだろうか。天下の義士と呼ばれる托塔(たくとう)天王(てんおう)や及(きゅう)時雨(じう)でもあるまいし。

 まあ、そんな事はどうでもよい。助けてくれるって言うなら、助けてもらおうじゃないか。

「へへ、ありがてえな。しかし一体どうして」

 その牢役人、楊雄はしかめ面のまま時遷に語った。

 時遷が盗みに入ったのは、薊州でも大きな店だった。髪飾りや首飾りなども扱っており、時遷はその店の倉に忍び込んだ。しかし時遷は密告で捕えられてしまう。

 楊雄が、盗まれたいう品物を見た時、思わず驚きの声を上げた。

 そこには見覚えのある品があった。数ヶ月前に盗まれた、母の形見がそこにあったのだ。

 どのような経緯でその大店(おおだな)に渡ったのかは分からないが、とにかく楊雄の手元に戻って来たのだ。その礼という訳ではないが、楊雄は時遷の力になろうと思ったのだ。

 楊雄は牢役人でもあり、また人望のある王(おう)押司も力を貸してくれると言っている。

「その代わり、だ。もうこの街では盗みを働くなよ。今度捕まれば、もうわしにもどうにもできんからな」

「へへ、分かりました約束しますよ、旦那」

 仲間に密告されたのは不運だったが、まだまだついているようだ。しかし、奇矯な人間もいるものだ、時遷はそう思いながら楊雄に言った。

「ご迷惑ついでに、もう一つお願いを聞いてはくれませんかね、楊雄の旦那」

「なんだ」

 暗い牢の中で、時遷はにやりと笑っていた。

 

 月は雲に隠れ、絶好の盗み日和(びより)だった。

 そっと人影が裏木戸から抜け出てきて、塀から顔をのぞかせる。人気(ひとけ)がないのを確かめると通りに降り立ち、駆けだした。脇には小さな箱を抱えていた。

 影は粗末な家へと姿を消した。頭巾をとり、汗をぬぐった。そして持っていた小さな箱を卓の上に置き、舌なめずりをしながら手を擦(さす)った。

 ゆっくりとその箱を開けると、中からきらびやかな宝飾品や錠銀などが出てきた。男はそれを見ながら、ひたすらにやにやとしていた。

 やがて満足したのか箱を閉じ、それをしまおうと振り向いた時であった。

 目の前に人がいた。

 思わず後ろに飛びのき、卓に腰をぶつけてしまう。

「ほう、驚きの声も出さないってのは、お前も大したもんだな」

 目の前の男がそう言った。

「お、お前は、時遷。ま、まさか、お前は」

「死んだはずだって、かい。じゃあ、目の前にいる俺は幽霊だな」

 そう言って時遷が、両手を胸の前で垂らしてみせ、おどけたような仕草をする。

 そしてふいに真顔になり、素早い動きで男の後ろを取ると、その首に短刀を当てた。男はその動きに反応する事すらできなかった。

 時遷の頼みごと、それは自分を死んだ事にしてほしい、という事だった。

 今、時遷が刀を当てている男、この男が密告者であった。この男のせいで、時遷は縛(ばく)についたのだ。

 男はゆっくり、なだめるように言う。

「な、なあ落ち着けよ、時遷。生きてたなんて驚いたが、嬉しいぜ」

「よく言えたもんだな。お前はやっちゃいけねぇ事をした。わかるだろう、仲間を売っちまったんだ。こいつはその落とし前だぜ」

 時遷は首に当てている刃を、すっと真横に引いた。

 ひい、と男はか細い悲鳴を上げた。

 地面に倒れ伏す男を、時遷は冷たい目で見下ろしていた。

 男が動かなくなる頃、時遷の姿はそこにはすでになかった。

 戸を開ける音も、足音さえも、何ひとつ聞こえはしなかった。

 

 石秀が先頭を歩き、悲痛な面持ちの楊雄が後に続く。翠屛山で出会った時遷も、行く当ても無いんでお供しますよ、と言って半ば強引について来てしまった。

 かくして三人は飲馬川へと向かって歩き出した。

 潘巧雲の命を奪ってしまい、うなだれる楊雄。石秀も裴如海と頭陀を殺めており、もう薊州に戻る事はできない。

 そこで石秀は戴宗と楊林の言葉を思い出した。二人は飲馬川で待っていると言っていた。その言葉に一縷(いちる)の望みを託し、そこに向かう事にしたのだ。

 石秀は道すがら、戴宗らと出会った話をした。

「梁山泊は天下の好漢が次々と集まっていると聞きます。こうなれば我らも、梁山泊へ身を寄せるのが良いでしょう、義兄(にい)さん」

「そうだな、わしもお前も寄る辺のない身だ。行ってみるしかなかろう」

「へへへ、梁山泊か。あっしらも好漢の仲間入りという訳ですね」

 楊雄は思う。自分は好漢などと呼ばれる男ではない、と。

 妻を殺したのだ。友の想いを果たせなかったのだ。

 だがひたすらに真っ直ぐな石秀と、軽口ばかり叩く時遷を見ていると少しだけ、少しだけだが心が軽くなるような気がするのだった。

 やっとたどり着いた飲馬川に戴宗らはいなかった。確かにあれから半月以上経っているのだ、いなくなっていてもおかしくはあるまい。

 そこにいたのは数人の者たちがいた。裴宣をはじめとする頭領たちと戴宗はすでに梁山泊へと向かい、飲馬川は引き払われたのだという。そして彼らは、石秀が来た時に伝言をする為に、と残された者たちであった。

 彼らは安心した顔をすると、先に梁山泊へと出発して行った。

 しかして楊雄、石秀そして時遷は一路、南下する。

 やがて幾日か旅をした三人は鄆州へと入った。もうひと踏ん張りだが、梁山泊に近づいたという事で気を引き締めねばなるまい。

 すでに日は落ちかけ、空は赤く染まっていた。

 行く手には高い山が連なって見える。あの山を越えねばならないが、今日はもう無理だろう。するとおあつらえ向きに宿屋が見つかった。

 見ると、若い衆が門を閉めようとしている。

「おおい、待ってくれ。俺たちが泊まるぜ」

 時遷が声をかけ、宿屋へ向かう。

 宿屋の男は、遅いお着きですねと笑い、何たって百里も歩いたからな、などと時遷は嘯(うそぶ)いていた。石秀が見まわすと、店の軒下に数十本も立派な朴刀が挿してあるのに気付いた。

「どうしてこんなに武器を置いているんだね」

「ここはあの梁山泊から遠くありませんので、奴らが襲ってこないように準備しているんです」

「なるほど、しかし梁山泊は義に厚い者たちの集まりと聞く。善良な民を襲う事は無いと思うが」

「お客さん、滅多な事は言わない方がいいですよ。ここには祝家荘の方たちも、よくお見えになるんですから」

 この一帯、三十里四方は祝家荘と呼ばれ、全部で七百戸ほどがあるという。ここもその一つであるというのだ。

 祝家荘の荘主である祝朝奉はお館(やかた)さまと呼ばれ、この先の独竜山の手前の独竜岡に居を構えている。祝家荘は梁山泊を敵視しており、これらの武器は祝朝奉から与えられたものであるというのだ。しかも一本一本に番号がついて管理されており、売る事はおろか失くす事もできないのだという。

「なるほどねぇ、ところで俺たちは腹が減っててね。酒と飯をいただきたいんだが」

 時遷はそんな事よりも、とさっそく注文を始めた。

「酒と菜はあるのですが、肉は近くの村の衆が買って行ってしまいまして」

「なんだって、肉は無いのかよ」

「まあ、こんな遅い時間だし仕方ないではないか。とりあえず酒と菜を頼む、それと米を貸してくれ」

 時遷をなだめるように楊雄が店の者に頼み、銭を渡す。

 ちぇ、と言いながらも時遷はかまどに火を入れると、てきぱきと米を炊き始めた。そしてその間に湯を持ってきて、楊雄と石秀に足を洗わせてくれた。

 石秀は少し驚いた。この時遷という男、ただのこそ泥ではなかったようだ。楊雄への恩義を忘れない男だと、石秀は内心で敬服するのだった。

 やがて米が炊けた。菜をつまみに米を喰い、酒を飲む。なんとも味気ないが仕方あるまい。そこへ、どこかへ行っていた時遷が戻ってきた。

「兄貴、肉はいかがですかい」

 時遷は鶏を手にしていた。

「宿の者が無いと言っていたのに、どこから手に入れてきたんだ」

「へへへ、ここの裏にいたんでさぁ。で、ちょいと拝借したって訳で」

「手癖が治っておらんな、お前は」

 楊雄が呆れ顔で言い、時遷はすみませんね、と悪びれた様子もなく笑った。

 

 明日は山越えだし、そろそろ床(とこ)につくとしよう。

 三人が寝床の準備をしていたところへ、宿屋の若者が飛び込んで来た。若者は顔を赤くして喚(おめ)いた。

「あんたらだろう、うちの朝鳴き鶏を喰っちまったのは」

「なに言いがかりつけてんだよ。俺たちが途中で買ってきたもんだよ、あれは」

 時遷がうるさそうに布団に潜りこもうとする。若者はそれでも食い下がる。

「じゃあ、うちの鶏はどこへ行ったんだよ」

「さあね、山猫にでもさらわれちまったんじゃねぇのかい」

 しらを切るな、と若者が時遷に掴みかかる。楊雄と石秀が慌てて間に入って、それを止めた。

 石秀が、まあまあ、となだめようとするが、若者はなおをも食いついてくる。

「そんなに言うなら弁償するから、それで良いだろう」

「金の問題じゃあないんですよ。あの鶏もお館さまの物なんですから。どうしたって返してもらいますからね」

 強情な若者に、楊雄もさすがに辟易してきたようだ。 

「返せと言っても、ない物は返せないではないか。どうするというのだ」

 石秀の腕を引き剥がすように腕を振ると、若者は三人に指を突きつけた。

「ここはそんじょそこらの村じゃないんだ。あんた達を梁山泊の賊だと言えば、すぐにとっ捕まってお役所行きですぜ」

「なんだと、俺たちを脅そうってのか。俺たちが梁山泊の者だとしたら、どうやって捕まえるというのだ」

 思わず石秀は、かっとなって言ってしまった。

 若者は、梁山泊の賊がいるぞ、と大声で叫んだ。すぐに店の奥が騒がしくなり、大きな男たちが四人ほど乗り込んできた。

 大男たちが楊雄と石秀に掴みかかった。

 石秀はうまくその手をかわすと、鼻っ柱を殴りつけた。大男の一人が鼻血を出し、目に涙を溜めながら転げ回った。

 もう一人が、楊雄に殴りかかった。だが楊雄はその拳を難なく受け止めるとその腕を捻り、床にねじ伏せてしまった。そして残りの大男たちを睨む。

 薊州で凶悪で屈強な囚人たちに怖れられていた楊雄である。その眼光だけで、所詮は庶民である大男たちを怯ませるのには充分であった。

 目の前で大男たちが倒されてゆく様子を見て、若者も焦った。さらに叫ぼうとしたところ、いつのまにか目の前にいた時遷に一発喰らわされ、それどころではなくなった。

「ここから逃げるぞ」

 楊雄が叫び、二人がそれに続いた。

 残りの大男たちがどこかへ逃げて行った。おそらく助けを求めに行ったのだろう。今は何とかなったが、多勢に無勢だ。しかもここは祝家荘、地の利は向こうにあるのだ。

 宿の軒下から朴刀を拝借すると、三人は祝家店を脱した。

「兄貴、こっちです」

 時遷が暗闇の中を迷わず駆けてゆく。ここへ着いた時に、しっかりと裏道を確認していたようだ。石秀はまたも唸った。

 喚声が聞こえ、松明がいくつも見えた。二百はいるだろうか。いかに三人が腕に覚えがあるといっても、どうこうできる人数ではなかった。

 しかし、この裏道にも数人の追っ手がいた。先手必勝とばかりに、石秀が朴刀を閃かせ二人を斬り倒した。浮足立った彼らは、さらに楊雄に三人ほど斬られた所で一斉に逃げ出した。

「見たかよ、兄貴たちの強さを」

 と鼻を鳴らす時遷。

 さらに進んだところで、脇の草むらから二本の撓鈎(どうこう)が伸びてきた。その熊手のような鉤爪に時遷の上着が引っ掛けられた。兄貴、という叫びと共に、目の前で時遷が草むらへと引きずりこまれてしまった。

 石秀が時遷を救おうと飛び出したところへ、また二本の撓鈎が伸びてきた。楊雄が咄嗟にそれを朴刀で叩き斬り、石秀を引き寄せる。

 その時、時遷の声が聞こえた。

「兄貴、あっしに構わず、逃げてくれ」

 そしてその声は遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。

 このままでは全員捕まってしまう。あくまでも、石秀は時遷を取り返そうと主張した。

 どうする、悩んでいる時間は無い。すぐに新手がやって来るだろう。

 楊雄は苦渋の決断をするしかなかった。

 今は逃げてのち、救いだす手立てを考える。楊雄がそう決め、石秀もそれに従った。

 時遷は後ろ手に縛られると、祝家荘へと引き立てられて行った。

 祝家店のあたりでは、まだ追っ手たちが松明を手に楊雄と石秀を探していた。

 そのうちに空が白みだしてきた。

 もうこんな時間か、と宿屋の若者が空を見上げた。

 もう朝を知らせる鶏はいないのだ。

 くそっと毒づき、傍らの石を蹴とばした。

 時遷に殴られた鼻のあたりが痛みで疼いた。

bottom of page