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決裂

 夜明け過ぎまで逃げ、見つけた一軒の居酒屋へと入った。

 酒と飯を頼み、やっと人心地つく事ができた。

 だが時遷の事を考えると、そうゆっくりもしていられない。

「荷物の準備はできたか。できたら屋敷へ運ぶのだぞ」

 そこへ大声でがなりながら、一人の男が入ってきた。どうやら店の者へ言っているようだ。  

 男は怒っているような目つきで、四角ばった顔をしていた。体格もよく、服の上からでも筋骨隆々な様(さま)が分かるほどだった。

「わかりました。荷造りでき次第、運びますから」

「うむ、頼むぞ」

 男はそう言うと踵(きびす)を返し、出て行こうとした。そこで近くの卓にいた楊雄と目が合った。「お前は」

「あなたは」

 楊雄と男は同時に声を上げ、笑った。

「お前は杜興(とこう)ではないか。あれからどこへ行ってたんだね。元気なようだが」

「こんな所で恩人さまに会うなんて。その節は本当に助かりました」

 二人を見比べている石秀に、楊雄が紹介してくれた。

 杜興は中山府の者で、もともと商人をしていた。そのいかつい顔つきから鬼瞼児(きれんじ)と呼ばれているという。しかしその割に、商売の腕前はなかなかのものだった。

 ある日、杜興たちが薊州にまで商いに来たところ、商売仲間といざこざを起こしてしまった。原因が何だったかは分からないが、おそらく些細な事だったのだろう。

 やがて取っ組み合いの喧嘩になり、杜興は頭に血が上り、相手を思い切り殴ってしまった。倒れた時の打ち所が悪かったのか、杜興の拳の強さのせいか、その相手は死んでしまった。

 牢につながれることになった杜興は、そこで楊雄と出会った。

 楊雄はひと目見て、杜興の怪異な風貌と、その剛拳に興味を持った。

 杜興も、我流ではあったのだが、拳術や棒術などには一家言(いっかげん)持っていた事もあり、二人はすぐに良い話相手となった。

 杜興は、人を殺したとはいえ、あくまでも過失ではある。そもそも喧嘩を吹っかけてきたのは相手だという証言と証人もあった。

 楊雄は仏心を起こし、何とか手を尽くして杜興を救ってやった。このまま牢で埋もれてしまうにはもったいない男だと思ったのだ。

 かくして杜興は、お決まりの棒打ちを受け、釈放された。

「このご恩は必ずお返しいたします、楊雄どの。たとえ生まれ変わったとしても」

 去り際に告げた言葉を、杜興はまだ覚えていた。当時の様子を嬉しそうに大声で話す杜興。先ほど店の者に告げた声は怒っていたのではない、それが杜興の普段のものだったのだ。石秀は、この杜興に好感を抱(いだ)いた。

 また、石秀は楊雄の事を思った。

 捕らわれた時遷やこの杜興のように、楊雄に恩を受けた者は、その恩を忘れる事はなかった。時遷や杜興の義侠心ももちろんだが、人を見る目を楊雄が持っていたという事だ。

 そして楊雄は、石秀にも目をかけてくれたのだ。杜興と話をしている楊雄を見て、石秀は嬉しい気持ちになった。

「それで楊雄どのと石秀どのは、どうしてこんな所まで」

 うむ、と渋い顔を楊雄がした。それに代わり、石秀が事の顛末を説明した。

 薊州での一連の出来事から、祝家店での騒動。そして、ここまで逃げてきたこと。さらに捕まった時遷をなんとか救い出さなければならない事、を一気に話した。

 梁山泊へ行く、という部分は隠して、だが。

 怒ったような顔で、それが普段の顔なのだろうが、杜興はじっと聞いていた。そして聞き終えると、こう言った。

「わしに任せていただきたい。これで楊雄どのに恩が返せるというものです」

「本当か、杜興」

 ええ、と杜興はにこりと笑った。

 やはり怒っているような顔だったが、おそらく笑っていたのだろう。

 

 情けは人のためならず、とはまさにこの事か、と楊雄は痛感していた。

 杜興は二人を、とある屋敷へと連れてきた。今、杜興が仕えている地元の大旦那の屋敷だという。その大旦那ならば、時遷を取り戻す力になってくれるだろう、というのだ。

 杜興は薊州からここへ流れ、その大旦那に目をかけてもらったという。もともと商人上がりの杜興である、その大旦那の膨大な出納の管理を任されるくらい信用され、今日(こんにち)に到っているのだという。

 杜興が道すがらこの地の情勢を教えてくれた。

 祝家店でも聞いたが、あの高い山が独竜山、その手前の岡が独竜岡だ。そして独竜岡の手前に三つの村があるのだという。

 中央が祝家荘、西側が扈家荘、東側が李家荘である。

「一番、大きな勢力は祝家荘ですね」

 祝家荘は祝朝奉を荘主とし、さらに祝氏三傑と呼ばれる息子たちがいるのだという。

 西の扈家荘は扈太公が荘主で、二人の兄妹がいる。兄よりも妹の方が腕が立ち、しかも祝家の末の息子の許婚であるというのだ。

 そして杜興が世話になっているのは、東の李家荘であった。

「旦那さまの名は、李応(りおう)と申します」

「もしかして撲天鵰(はくてんちょう)の李応どのか」

 驚く楊雄に、杜興は誇らしげに微笑んだ。

「私も薊州に来る前に聞いたことがありました。天を撲(う)つ鵰(わし)の異名を持つ、李応どののお噂を。こんな所にいらっしゃったとは」

 興奮気味な石秀に、杜興も嬉しそうだった。

「祝家荘、扈家荘、李家荘の荘主の三人は互いに協力し、生死も共にするという誓いを立てております。特に近ごろ勢力をつけている梁山泊に対抗するための準備も充分にできておりますから安心してください」

 複雑な表情の楊雄。今さら、梁山泊へ身を寄せるつもりなどとは言えない状況だ。

 そうするうちに三人は李応の屋敷へと着いた。

 へえ、と感嘆の声を上げる石秀。

 長大な白壁の塀がぐるりと取り囲み、さらにそれを広い堀が取り囲んでいる。岸にはやっと抱えられそうなほどの太さの柳が数百本も植わっているだろうか。

 吊り橋を渡り、中庭に入るとさらに目を見張った。両側の槍掛けには幾十もの武器がきらきらと光っていたのだ。

 済州(さいしゅう)にいる大周皇帝の末裔、柴(さい)大官人もかくやではないだろうか、と石秀は想像を膨らませた。

「これはこれは、ようこそ。杜興が昔世話になったそうで、楊雄どのの事は杜興からいつも聞かされておりましたよ」

 李家荘を治める李応であった。

 穏やかな物腰であるが、その挙措ひとつひとつに見え隠れする鋭さがあった。またその手は、一介の金持ちではない明らかに武を修めている者の、それだった。

 楊雄と石秀は客間に通され、杜興が簡単に説明をした。

「ぶしつけなお願いですが、時遷の奴めを取り戻すのにお力をお貸しいただければ、死んでもご恩は忘れません」

 楊雄と石秀が必死な顔で頭を下げる。さらに杜興も頭を下げた。楊雄への恩を、返したい一心であった。

「頭をお上げなさい。私から手紙を送る事にしよう。そうすれば、すぐにその者を返してもらえるでしょう」

 李応はそう言うとすぐに家人を呼び、手紙をしたためた。それを使いの者に持たせ、楊雄と石秀のために朝食と酒を用意させた。

 軽く酒も入り、自然と武芸の話題になる。

 石秀は待ってましたとばかり、李応の武勇譚を杜興から引き出そうとする。李応は点鋼鎗(てんこうそう)の腕に加え、ある技を持つ事が知られていた。

 飛刀である。背中に五本の飛刀を隠し持ち、百歩離れた的(まと)にさえ当てる事ができるというのだ。

「若い頃の話だ。すっかりこの有様だよ」

 李応はおどけるように柔らかい笑みを浮かべた。

 やがて昼近く、祝家荘へ向かった使いの者が戻ってきた。しかし、使いの言葉に驚くこととなる。

 祝朝奉は手紙を見て時遷の返却を承諾したという。しかしその後、祝家の三兄弟が出てきて前言を撤回、時遷は役所へ突き出すと言って、使いの者は追い返されたというのだ。

「何かの間違いではないのか。今度は杜興、お前が行って対応してくるのだ」

 手紙を携(たずさ)え、杜興が馬で祝家荘へと向かった。

 杜興ならば、うまくやるだろう。そう期待しながら三人は酒の席へと戻った。しかし待てども杜興はなかなか戻って来ず、やがて日も暮れはじめた。

 誰かを迎えに行かせようと思った矢先、杜興帰還の連絡があった。

 迎えに出た三人が見たのは、顔を真っ赤にして怒りを露(あら)わにした杜興だった。

 普段から怒ったような顔をしている杜興だったが、これは本当に怒っているのが分かった。楊雄が声をかけるのもはばかられるほどであった。

「一体何があったのだ」

「旦那さま、どうもこうもございません。あの祝家の三兄弟が」

 そこまで言い終えて、杜興は奥歯をぎりぎりと噛みしめた。

 杜興は祝朝奉には会えなかったという。待たされていたところへ三兄弟がやって来て、杜興に怒鳴った。時遷は梁山泊の者だからどうしても役所に突き出す、と言って聞く耳をもたなかったという。

 杜遷は李応の手紙を出すも、兄弟はそれを見もせずに破り捨ててしまった。さらに杜興までも捕まえようとしたので、馬を飛ばして逃げてきたというのだ。

「あの若造どもめ、祝朝奉の顔を立てて穏便に済ませてやろうというものを。わしが行って思い知らせてくれる」

 李応は怒りで顔を真っ赤にし、立ち上がった。

 お待ちください、という楊雄と石秀の制止も聞かず、李応は武装を整えた。

 緋色(ひいろ)の上着に、背中には五本の飛刀。金の鎧に鳳翅の兜、手には点鋼鎗を握る。門前で号令をかけ、三百人ほどの屈強な者たちが整列した。

 楊雄と石秀は止めねばならぬ、と分かってはいたが、目の前にいる李応の出で立ちに見蕩れていた。

 先ほどの大旦那然とした姿から一転、そこには伝説の撲天鵰の雄々しい姿があった。

 

 祝家荘の門前に三人の若者がいた。

 祝家の三兄弟こと、上から祝竜、祝虎、祝彪である。兄二人を左右に従え、赤毛の馬にまたがった中央に陣取る若者、それが祝彪であった。末っ子でありながら武芸の腕も兄弟では一番上で、その押しの強い性格に祝竜、祝虎も自然と弟を立てるようになっていった。 さらに扈家荘の娘を許婚とするに到り、それはますます強くなった。

「来たな、おいぼれめ」

 祝彪は馬上から唾を吐き捨てた。

 武装した李応が馬の足を緩め、ゆっくりと止まった。後ろには槍を握った杜興そして楊雄、石秀の姿も見えた。李応を止められなかった二人はこうなれば仕方あるまい、と装備を整え朴刀を手に追ってきたのだ。

 祝家の三兄弟よ、と李応が張りのある声で朗々と告げた。

「何ゆえ、事を荒立てようとするのか。礼を尽くし、直筆の書面にて友人の解放を頼んだというのに、あまつさえそれを確かめもせずに破り捨てるとは。返答いかんによっては、この李応」

「賊の仲間のくせにうるさいんだよ、爺さん」

 李応の言葉が祝彪に邪魔された。そして吐かれた侮蔑の言葉に李応の顔が赤くなる。

「何だと、旦那さまの事を」

「待ちなさい、杜興」

 杜興が喰ってかかったおかげで、少し冷静になれたようだ。

「祝彪よ、少しは言葉を慎んだらどうだ。お主らの父とは、扈家荘の荘主とともに、生死の交わりを誓った仲だ」

「知ってるさ。だが、それは梁山泊の叛徒を捕え、奴らを一掃するための誓いのはずだ。こちらが捕らえている男は梁山泊と関係していると、自ら口にしているのだ。こいつを救い出そうとは、あんたも奴らと結託して謀反を起こそうという腹づもりか」

「黙って聞いておれば、好き勝手ぬかしおって。まだ乳臭い、青二才め」

 李応が馬に鞭をくれ、駆けだした。にやりと笑い、祝彪がこれを迎え討つ。

 槍と槍がぶつかり合う。李応は突きを数度繰り出し、祝彪は馬上で上手く体をいなし、それをかわした。鋤を見て、今度は祝彪が突きを放った。李応はかわしきれぬと見て、それを槍の柄で受け流す。

 見ている杜興も槍を持つ手に力が入る。

「やるな。老いたりとはいえ、さすがは撲天鵰か」

「小僧め」

 李応の腕が少し痺れていた。相手は祝家最強の男、しかも若さの盛りだ。しかしそこで臆する李応ではなかった。

 ふっ、と息を吐き馬を駆る。祝彪も馬を走らせた。

 すれ違いざま、祝彪が槍を横に薙いだ。李応の背後から槍が迫る。

 当たった。祝彪は思ったが、そこに李応はいなかった。李応は、祝彪の槍の上を跳躍していた。馬を駆る姿勢から、一瞬のうちに上方へ跳んだのだ。

 李応の槍が、槍を振り切った無防備な祝彪を襲った。しかし祝彪は、無理矢理に体を捻じ、何とかそれをかわす事ができた。

 馬から落ちそうになり、手綱を慌てて掴み体勢を整える。

 李応は何事もなかったかのように、再び鞍に腰を据えていた。祝彪を睨みつける李応。

 撲天鵰、祝彪はその渾名を改めて思い出した。

 さらに李応の攻撃は休むことなく続いた。

 おいぼれのどこにこんな体力が、と思いながらそれを凌いでいたが、やがて祝彪の方に疲れが見え始めた。

「この叛徒め」

 吼える言葉にも力が無い。槍が重い。祝彪は肩で息をし始めた。

 祝彪が危ないと見た祝竜、祝虎も武器を構え、馬を駆ろうとした。

 一転、祝彪は馬首を返すと兄たちの方へと逃げだした。

「逃げるか、若造」

 李応がそれを追う。

 そこに矢が放たれた。叔彪は逃げると見せかけ、見えない位置で弓を取り出すと振り向きざま、李応に射たのだ。

 さすがの李応も反応が遅れた。体をかばうように出した左(ひだり)肘(ひじ)に矢が突き刺さった。そしてその勢いで、李応は落馬してしまった。

 祝彪は好機と見て、再び馬首を転じ李応に襲いかかる。

「旦那さま」

 叫んだ杜興が飛び出してゆく。だがそれよりも早く、石秀が李応の元へ辿りついていた。

 朴刀で祝彪の槍を弾き返す。祝彪の腕がしびれた。

 すぐに楊雄もそれに加わった。馬上の祝彪に二人は李応を守って朴刀を閃かせる。

 抗しきれぬと見た祝彪は、後方の祝竜と目を見合せた。

「矢を放て」

 祝竜の命令に、祝家の兵たちがすぐに応じた。十数本の矢が飛んでくる。

 楊雄と石秀は李応を守るように、矢の前に立ちはだかった。

「動くなよ、二人とも」

 李応がそう叫んだ直後、二人の間から何かが飛んでいった。

 飛刀である。

 五本の飛刀が、五本の矢を正確に落とした。それは楊雄と石秀に確実に当たっていただろう矢だった。残りの矢は三人の近くの地面に突き刺さってゆく。

 李応は左腕を負傷しながら、座った姿勢のまま楊雄と石秀の間を縫って、矢に飛刀を当てるという離れ業をしてみせたのだ。

「旦那さま」

 杜興が李応を抱きかかえ、自陣へと戻ってゆく。その後ろを守りながら、楊雄と石秀も下がっていった。

 だが飛刀の腕前を見てしまった祝家の兄弟たちは動く事すらできなかった。

 ただ、いつでも相手になってやるぞ、と声を上げるのみであった。

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