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愛憎

 七月七日を巧日と呼ぶのにちなみ、巧雲と名付けられた。

 潘巧雲、楊雄の妻である。年は楊雄のふたつ下で、夫婦となってからまだ一年もたっていなかった。

 この潘巧雲、楊雄の前に王という押司に嫁いでいた。しかし二年前、王押司が亡くなってしまった。その後、縁あって楊雄に嫁いだのだ。

 石秀は楊雄の家に住む事になった。潘巧雲と舅の潘老人に挨拶を交わし、改めて酒宴が設けられた。ここは元々、潘老人の家だった。薊州の人間ではない楊雄は役所で寝泊りをしていたのだが、結婚した際に楊雄を迎え入れたのだった。

「義姉(ねえ)さん、ありがとうごございます」

 潘巧雲が楊雄、石秀と順に酌をする。

 色が白く美しい女性だった。しかしどこか翳(かげ)りのある感じが、石秀にはした。突然転がりこんできた石秀にはもちろんだったが、楊雄に対しても何となく余所余所しい雰囲気があった。

 しかし仕方あるまい。まだ共に暮らして一年も経っていないというし、夫に先立たれたばかりなのだ。

 気にする事はあるまい、と石秀は杯を口にした。

 

 肉屋をやらないか。

 石秀の身の上を聞き、潘老人がそう告げた。

「わしも元々肉屋をやっていての。なにぶん年のせいで閉めておったのだ。道具や設備も揃っておるし、どうだね石秀どの」

 断る理由などありはしない。石秀は何度も潘老人に感謝をした。本当にこのところ良い事続きだ。楊雄も、それは良い、と喜んでくれた。

 家の裏手が袋小路になっており、その奥に店があった。店は仕事場と住居を兼ねており、石秀はそこに寝泊まりする事となった。

 庖丁を研ぎなおし、店の掃除をする。肉斬り台やまな板も新調しなければならない。嬉々として準備を進める石秀に、潘老人も目を細めていた。

 やがて石秀の肉屋が開店となった。近所の人々もお祝いに駆けつけてくれた。

 あの病関索の義弟という事もあり、はじめは野次馬的な客も多かったようだ。だが石秀の腕が確かなものだったし、さっぱりしたその性格で、次第に客が増えるようになった。

 店に慣れるまでは、潘巧雲も手伝いに足を運んでくれていた。潘老人を手伝っていた事もあるというので、ずいぶんと助かったものだ。

 ある夕方、店をしめようと片付けをしていた時のことだ。

「義姉さん、後は俺がやりますから。義兄さんもそろそろ帰って来る頃でしょうし」

 潘巧雲の返事がない。振り向くと、潘巧雲は手にした包丁をしげしげと見つめていた。

 もう一度呼びかけると、そこでやっと気付いたように潘巧雲がこちらを見た。

「え、ああ、そう。それじゃあ、私は戻りますわね」

 潘巧雲は包丁を置き、ふう、と小さな溜息をついた。

 帰って来なければ良いのに。

 微(かす)かな呟(つぶや)きだったが、石秀の耳にはそう聞こえた。

 え、と石秀が見た時には、すでに潘巧雲の姿はなかった。

 それから潘巧雲は顔を見せなくなったが、石秀は気にしていなかった。

 そうしてふた月あまり、役所勤めで忙しい楊雄ともあまり顔を合わせない日が続いた。

 少しは儲けも出たので、石秀は着物を新調した。残った金でお礼の品を買い、潘老人を訪れた。冬の、特に寒い日だった。

「わざわざ、すまんのう。どうせ使っていなかった店だ、礼など良いのに」

「いいえ義父上にはいくら感謝しても足りないくらいです」

 ちょっと待っていておくれ、と笑い潘老人が席を外した。どうやら来客があったらしい。

 茶をすする石秀の元へ潘巧雲が姿を見せた。石秀は立ち上がり挨拶をしたが、巧雲はちらりと石秀を見て、

「あら暖かそうなお着物を召してらっしゃるのね。随分、儲かってらっしゃるようで、良かったですわ」

 と茶を足して、そそくさと部屋を出て行ってしまった。

 どこか棘(とげ)のある物言いだった。新しい着物を買うくらいならば、楊雄や潘老人にもっと良いお礼をしたらどうなのか、と言われているような感じだった。

 それもそうだな、と石秀は嘆息すると店へと戻った。

 そう言えば、明日早くから豚の買い付けに行くので数日店を空けるのだった。潘老人に店の事を頼むのを忘れてしまった。まあ、三日ほどで戻れるだろうから、心配はないだろう。

 しかし三日後、戻ってきた石秀は驚くしかなかった。

 店の窓や戸が閉められており、包丁や道具類もまるで閉店したかのようにきれいに片づけられていたのだ。

「これは一体」

 楊雄は役所での仕事が忙しく、家の事には口を出さない人だ。潘老人は石秀に店を譲ってくれた相手でもある。自分に黙って店を閉めてしまうとは、何かあったのだろうか。

 石秀は潘巧雲の顔を思い起こした。美しいが、冷たい視線だった。

 いや、と石秀は疑念を振り払うと、覚悟を決めた。

 自分にも非があるのかもしれない。ここはこれまでの礼を言って潔く故郷へと戻る事にしよう。どうせ、何も持っていない身だったのだ。

 石秀は荷物をまとめ、その足で潘老人の元へと向かった。

 

 ははは、と潘老人が笑った。そして石秀に詫びた。

「いやいや、これはすまぬすまぬ。お主には言っておらなかったな。実は」

 潘金蓮の前夫の二周忌だというのだ。そのためその間、店を閉めて石秀には弔問客の接待をしてほしいという話であった。

「これは、申し訳ありません。私の方こそ、早合点してしまいました」

「おう石秀、来ていたのか。久しぶりだな」

 そこへ楊雄が現れた。仕事の合間に来たようだ。潘老人と法事の件で確認事をし、石秀の元へ戻ってきた。

「義兄さん、お久しぶりです。おかげで商売の方も順調です。義兄さんもお忙しそうですね」

 うむ、と楊雄が黄色い顔を曇らせた。

「実は、今晩も泊まりの勤務なのだ。だから法事はお前に任せきりになってしまうが、構わないかな」

「ええ、もちろんです。義兄さんも、あまり無理なさらぬよう」

「ありがとう。お前とこうして知り合えて、本当に良かったと思っているよ」

 と、そこへ僧たちが荷物を抱えてやってきた。祭壇をしつらえ、仏像を置き花や燈燭などが並べられてゆく。

 じゃあ頼んだよ、と出ていく楊雄と入れ違いで、一人の若い和尚(おしょう)が入ってきた。鼻筋が通り、まつ毛の長い端正な顔立ちの和尚だった。

 和尚が合唱して挨拶をした。唄でも歌いそうな良い声だった。

「これはお義父(とう)さま、お久しぶりでございます。このところ、顔を見せていただけませんでしたね」

「すまぬ、近ごろまた商売を始めてな。こちらがそれを手伝ってくれておる石秀じゃ」

 和尚と石秀が挨拶を交わす。石秀の鼻に、麝香(じゃこう)が香(かお)ってきた。

 潘老人を義父(ちち)と呼んだ。さらに僧のくせに、麝香など。一体、何者なのだろう。

 訝(いぶか)しみながらも、僧からもらった素麺(そうめん)と棗の入った箱を二階へと運んだ。この棗は東京開封府から取り寄せたものだという。珍しいものではございませんが、などと嘯(うそぶ)いていたが。

「あら、それはどなたからいただいたの」

 潘巧雲だった。和尚の来訪を告げた石秀だったが、さらに訝しむ。潘巧雲は法事だというのに喪服さえ来ておらず、ほんのり薄化粧すらしていたのだ。

「もう師兄(にい)さんが来てらっしゃるのね」

 少し顔をほころばせた潘巧雲が、あの和尚について教えてくれた。

 和尚の名は裴如海(はいにょかい)。元は糸屋だったが、報恩寺に出家して、いまは海闍黎であるという。

 潘家は、彼の師にあたる人物の門徒であった。巧雲の前夫、王押司の葬儀の際に紹介されてからの縁だという。その時から潘老人を父代わりとし、だから潘巧雲も彼の事を師兄(あに)と呼ぶのだという。

 階下から潘巧雲を呼ぶ声があり、そそくさと下りて行った。

 海闍黎にまでなっているのだから大した僧に違いあるまい。しかし石秀は、ひと目見て感じた胡散臭(うさんくさ)さを消せずにいた。

 ともかく、今は法事をつつがなく執り行う事を考えよう。石秀はそう決めると階下へと向かった。

 

 居並ぶ僧たちが鐘や鉢を鳴らし、裴如海が朗々と読経を行っている。

 静々(しずしず)と潘巧雲が祭壇に近づき、焼香を上げる。前夫の事を思い出したのだろうか、目の端に光るものが見えたような気がした。

 やがて法要も終わり、女中の迎児(げいじ)が斎(とき)を運んでくる。

 夜も更け、潘老人はすでに床(とこ)へと入っていたため、石秀と潘巧雲が接待にあたる。

「義姉さんも、お休みになっていてください。後は私が」

 石秀はそう声をかけたのだが、潘巧雲は手ずから裴如海に茶を注いだりして側を離れようとしなかった。しかたなく、石秀は僧たちをひとしきりもてなすと、隣の部屋でひと息入れる事にした。

 裴如海と潘巧雲は、卓でひそひそと話しているようだ。石秀は目を瞑るが、その声が気になって休むどころではなかった。

 聞き耳を立てている訳ではないのだが、どうしても聞こえてくるのだ。楊雄といる時にはついぞ聞いた事のない、甘えるような声だった。

 義姉を、潘巧雲を信じたい気持ちはもちろんある。しかし、いや、と石秀は何度も首を振るばかりであった。

 翌日の夜、楊雄が仕事から戻り食事を済ませた。

「昨日はすまなかったな。王押司の法要は無事に済んだかね」

「ええ、おかげさまで」

 潘巧雲は、それだけ言うと後片付けに行ってしまった。

 なら良かった、と独り言のように、楊雄はちびちびと酒を飲んでいた。そこへ潘老人がやってきた。

「婿どの、お勤めごくろうさま。法要は無事に終わったよ。石秀どのがいてくれたおかげで、大分(だいぶん)助かったわい」

 楊雄は、にこりとしてそれに応えると、潘老人に酒を注いだ。

「それと、じゃな。娘が血(けつ)盆(ぼん)経(きょう)の願(がん)解(と)きをしたいと言っておる。急だが、明日の朝から報恩寺へ行く事にしたので、そのつもりでいてくれ」

 潘巧雲は母の死の際に血盆経の願掛けをしていた。血盆経とは、女性が落ちるとされる血の池地獄から救われるために読まれる経である。

「構いませんよ。私は仕事で行けずに、申し訳ありませんが」

 そこへ戻ってきた潘巧雲に、楊雄が言った。

「お前も、お義父さんに言わせないで、自分で言えばよいものを」

「すみません、叱られると思って、言いにくかったのです」

「わしが、いつお前を叱ったというのだ」

 と楊雄は叱るような口調になった事を悟り、口をつぐんだ。

 

 次の日の夕刻、潘老人と潘巧雲が帰ってきた。迎児も一緒だった。

 石秀はちょうど店の片づけをしていたところだった。そういえば、血盆経の願解きをしてくる、と聞いていた。

 少し離れた場所から二人に挨拶をする石秀。

 さて、と再びとりかかろうとした石秀は、思わず振り向いた。そして顔を曇らせ、鼻を鳴らし、二人がいた所を睨みつけていた。

 いや、潘巧雲がいた所を、である。

 確かに嗅いだ。

 あの時、法要の時に嗅いだ麝香を、石秀は感じたのだ。

 石秀は渋い顔のまま、しばらくそこに立っていた。

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