108 outlaws
邂逅
二
月明かりさえ射さない暗い牢の中で、男が力なく座っていた。
何時間もただじっとそこに座っていた。
「おい色男」
どこかから声がした。顔を上げてみるが、暗くてよくわからなかった。
「おい色男。こっちだよ、こっち」
闇に目を凝らすと、斜(はす)向かいの牢の中の男が手招きをしていた。
背の低い男だった。牢内だというのに、なんだか楽しそうな表情だった。
「やっと気づいたか。おい、その手にしてるもんは何だい」
他の囚人は起きていないようだ。自分に話しかけているのか。
「ああ、悪(わり)ぃ悪ぃ。俺は王英ってもんだ。あんたの名前は」
まるでどこかの飯屋で会っているかのように気軽に話しかけてくる王英。
少し考えて男は、鄭天寿、とだけぼそりと答えた。
「そうか鄭天寿か。ところでものは相談なんだが」
こんな牢内で何の相談だというのだ。鄭天寿は眉をひそめた。
「こっから逃げ出さないか」
鄭天寿は目を丸くした。
その手には、小さな銀の簪(かんざし)が握られていた。
江南は水の都、蘇州(そしゅう)で鄭天寿は生まれ育った。
子供の頃から色白で美男子であり、白面郎君(はくめんろうくん)などと呼ばれていた。
武芸もたしなんでいたが、何より手先が器用で銀細工師として生業(なりわい)を立てていた。
鄭天寿には幼馴染の娘がいた。近所の商人の娘で器量も良く、二人の仲は誰もが認めるものであった。
「まだそれを持ってるのかい」
鄭天寿は娘の髪に挿してある、銀の簪を見てそう言った。それは売り物とするには、少し不格好過ぎたのだが、どこか光るものが垣間見えた。
「当り前よ。これはあんたの一番初めの作品じゃない」
そう言って、愛おしそうに簪に触れる娘。そうか、と鄭天寿も目を細めた。
「もう少しで、金がたまる。そしたら店を出して、そして」
鄭天寿はすこし間(ま)をおき、娘の目を見つめた。
「二人で暮らそう」
娘は弾けるような笑顔になった。
返事はそれで充分だった。
娘の髪で簪が揺れた。
「本当にすまぬが、娘はやれんのだ。鄭天寿よ」
娘の父が唐突にそう言った。苦しそうな顔をしていた。婚約の件を一番喜んでくれたのは、娘の父だった。だが、彼はその三日後、鄭天寿の店に来てそう告げたのだ。
「おじさん、一体どうして」
困惑する鄭天寿を諭(さと)すように娘の父は言った。
「近ごろこの街にやって来た豪商を知っているだろう」
鄭天寿は黙って首肯する。嫌な予感がした。
「そいつがうちの娘を見染めてな。どうしてもよこせと言って来たのだ」
「まさか、おじさん、そいつに従うのかい」
娘の父は膝を折り、額を床につけた。
驚いた鄭天寿は動けなかった。
「すまない鄭天寿。娘はお前に嫁がせようと思っていた。しかし、しかし」
娘の父は嗚咽を漏らした。
実のところ、娘の父の店は火の車であった。利益のほとんどが税に取られ、経営も苦しい状態だったのだという。だがその豪商は、娘と引きかえに莫大な結納金を渡すと言って来たのだという。
すまない、すまないと娘の父はいつまでも言い続けていた。
鄭天寿は唇を噛みしめることしかできなかった。
そして輿入(こしい)れの日。豪商が自ら籠(かご)を率いて娘の店にまでやって来た。
新郎用の派手な衣装を着こみ、満悦顔だ。
娘が出てきた。鄭天寿も店先に来ており、娘を見ると息をのんだ。
美しかった。豪商から送られたのであろう煌びやかな花嫁衣裳である。だが娘は目を伏せたままで、悲しそうな顔をしていた。
「おお、やはり美しいな」
豪商が娘を籠に乗せようとした時、む、と唸った。
「何だこの不細工なものは」
豪商は、娘の髪に刺してあった簪を取り、憎々しげに睨んでいた。
それは鄭天寿が娘にはじめて贈った簪だった。今日という日も、外すことなくそれをつけていたのだ。
「返してください、それは大事なものなのです」
ふん、と豪商はそれを地面に叩きつけると、思い切り踏みつけた。
ああ、娘が悲鳴にも似た声を上げる。
「こんな物よりも、もっと綺麗なものを買ってあげるさ。さあ、早く乗るんだ」
気がついたら、そこにいた。
鄭天寿は人垣を乗り越え、豪商と娘の前に飛び出していた。踏みつけられた簪を拾い、豪商を睨んだ。
「なんだお前は。一体何の用だ」
豪商の言葉に鄭天寿の手が震える。
「やめて、鄭天寿。お願いだから」
娘が涙交じりに訴える。豪商の顔がにやりと歪んだ。
「なるほどお前か、銀細工師の男というのは。なんならお前の店も俺が買い取ってやっても良いのだぞ」
その言葉で鄭天寿の中の何かが切れた。
簪を持つ手を振り上げ、豪商に襲いかかる。
しかし二人の間に娘が飛び込んできた。両手を広げ、鄭天寿を遮るように立った。
「もう、やめて。お願いだから、やめて鄭天寿」
そして鄭天寿だけに聞こえるような声で囁いた。
「ありがとう。いつまでも私の心はあなたのものよ。変わらずに、ずっと。だから」
さよなら、と娘は輿に乗り込んだ。
豪商は、ほっと溜息をつき、鄭天寿に何か言うと娘の乗った輿と共に去っていった。
何を言ったのかは鄭天寿には聞こえていなかった。
ただ、娘の言った別れの言葉だけが、いつまでも耳に残っていた。
その夜、鄭天寿は我を忘れるほど酒を飲み、そして暴れた。
居酒屋の卓や椅子を壊し、止めに入った給仕や他の客までも、当たるを幸いと殴り飛ばした。やがて捕り手役人たちが駆けつけ、鄭天寿は取り押さえられた。
そして気がついたら、ここにいたのである。
王英が優しげに話しかけてくる。
「なあ、鄭天寿よ。こんな所とは早くおさらばしようや」
はあ、と王英がため息をついた。
「早くしねぇと、殺されちまうかもしれねぇからな」
王英は両淮(りょうわい)地方の生まれで、荷車引きの車夫をしていたという。
とある金持ちの荷を運んでいた時の事である。江南へ越すことになったため、家財などを運ぶことになり、金持ちの家族も荷車に同行していた。
王英はその金持ちの夫人にぞっこんになってしまった。
もともと女好きな性質(たち)であり、何度も失敗をしてきたのだが、それでも治る気配もなかったし、治す気もなかったのだろう。
道中での事である。汗をかき、車を懸命に引く王英に夫人がにこりと微笑みかけたのだ。
王英の心は天にも舞い上がらんばかりであった。
俺に気があるんじゃねぇか。
しかしそれは悲しい勘違いであった。重い荷車を引いている事に対しての労(ねぎら)いの意味があっただけで、王英には一切何の感情もあるはずもなかったのだ。
それから王英は暇があれば何かと夫人に近付くようになった。だがさすがに鬱陶しくなったのか夫人は旦那に告げ口をした。
王英は叱責され、さらに運賃も下げられてしまう始末。もらえるだけでもありがたいと思え、と怒鳴られる王英。そして夫人は荷車とは別で、馬で移動することになった。
噴飯たる思いの王英は、つい出来心をおこしてしまった。運んでいる荷には、相当の値打ちものがあることが分かっている。減らされた賃金の代わりだ、と王英はそれを奪ってしまおうと考えたのだ。
背は低いが、体は車引きで鍛えられている。また武芸にもそこそこの自信があり、王英はついに決行に及んだ。
旦那を傷つける気はなかった。ちょっと脅かすつもりだったのだ。ところが旦那は怯(ひる)まずに王英に向かって来たのだ。
王英の手にした朴刀に血が付いていた。
目の前には旦那が倒れている。
こんなはずではなかった。
立ち尽くす王英を、捕り手役人たちが囲んでいた。
鄭天寿は簪を鍵穴に入れ、何度か動かした。
かちりという音と共に、扉がゆっくり開いた。
王英の牢の鍵を開けた時、簪が折れた。
鄭天寿は地面に落ちた簪をただ見つめていた。
行くぞ、と言う王英の声に気づき、腰を上げた。
簪はそのままにしてきた。
鄭天寿の中で、何かが吹っ切れた気がした。
二人は明けきらぬ城内を隠れながら進み、やがて城門にたどり着いた。そのまま開門まで待ち、何とか商隊の荷車に隠れて城外に脱した。
安全な場所まで来ると、王英が聞いてきた。この後どうするのだ、と。当てはなかった。
王英は一緒に行かないか、と言ったが鄭天寿は断った。
しばらくは一人でいたかった。
王英と別れ、それからは数年ひとりで放浪の旅をした。
そして青州は清風山の麓を通った時、ひとりの山賊に襲われた。
なんとそれは蘇州で別れた王英だったのだ。偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎている気がした。
王英は鄭天寿を山寨へ招き、頭領の燕順を紹介してくれた。あれからここへたどり着き、なんと第二の頭領となっていたのだ。
燕順は豪快で剛毅に溢れており、なにより仲間からの信頼が厚かった。
來州(らいしゅう)で馬や羊を売る博労(ばくろう)をしていたのだが、度重なる重税でついには商売道具である馬や羊を取られてしまった。
燕順はその不当さに怒り、役人たちを相手に大立ち回りを演じた。そして落草すると、この清風山にやって来た。
清風山はすでに落草した者たちの巣窟となっていたが、燕順はその統率力と義侠心の高さから瞬く間に頭領へとなったのだという。
燕順は茶色がかった髪やその剛毅な性格から、畏怖と尊敬の念をこめて、毛並みの良い虎の意で錦毛虎(きんもうこ)と呼ばれていた。
一方の王英は矮脚虎(わいきゃくこ)と呼ばれていた。足の短い虎という意味だが、燕順がつけたものらしく王英本人も案外と気に入っている様子だった。
王英と燕順に、鄭天寿もここに加わらないかと誘われた。
迷う事はなかった。
自分には無いものを持っている二人を見て、鄭天寿は求めていたものがここにあるのかもしれないと思った。
時折、娘の顔を思い出したがそれ以上なんの感慨もなかった。ただ頭に思い浮かぶだけだった。
「鄭天寿、獲物が見つかったぜ」
王英が遠くで呼んでいる。
もう蘇州へ行くこともあるまい。
もうここが、この清風山が故郷なのだ。
鄭天寿は一度天を仰ぎ、それから手綱を引いた。
清風山、第三の頭領となった、まさに白面郎君と呼ぶに相応しい男が馬を駆っていた。