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酔夢

 新鮮な魚ではなかった。

 保存するために漬けていたのだろう。やや強い塩味が気にかかった。

 琵琶亭に宋江と戴宗、李逵の三人がいた。かの白楽天に縁(ゆかり)のある料亭だった。席から潯陽江が一望でき、宋江はその眺めの壮大さに感嘆の吐息を洩らすばかりであった。日はまだ高く、舟が何艘も走っていた。

 風光明媚な景色を堪能しながら、玉壷春(ぎょくこしゅん)を飲む。江州の銘酒である。

 戴宗も宋江に潯陽江の説明をしながら、酒を楽しむ。

 李逵だけは、花より団子とばかりに、大碗で酒をあおっていた。

 何杯か飲むうちに、宋江はふと魚辣湯(ぎょらつとう)が欲しくなった。辛子をきかせた吸い物である。 ほどなくして給仕がそれを運んできた。細切りにした白葱が浮いており、辛子の心地よい香りが鼻をつく。

 器も美しく、宋江は心躍らせながら魚辣湯に口をつけた。

 美味い。

 次に魚に箸をつけた。ほろりとほぐれた身を口に運ぶ。

 む、と宋江の顔を曇らせ黙ってしまった。

 それに気づいた戴宗が魚を食べてみた。

「うむ、どうもこの魚には塩をしているようだ。獲れたての物でないので、本来の味が出てませんな」

 李逵は魚も手づかみで骨ごと平らげてしまっていた。

「兄貴たちがいらないなら、俺がもらうよ」

 と言って、二人の分もあっという間に胃袋に収めてしまう。

 行儀が悪いぞ、とたしなめる戴宗をなだめ、宋江が李逵のために羊の肉を注文した。二斤ほどが大皿に盛られており、李逵はそれも遠慮なしに頬張りだした。

「さすが、良い食べっぷりですな。見ているこっちも気持ちが良い」

「さすが宋江の兄貴だ、おいらが魚よりも肉が良いとわかってくれてらあ」

 李逵はそう言いながらも、あっという間に皿を空にしてしまった。

 横で呆気にとられる給仕に戴宗が尋ねた。

「すまんが、今の吸い物は塩味がきつくて、ちょっと口に合わない。他に活きの良い魚があれば、こちらの旦那に辛味のきいた吸い物を作ってきてくれんか」

 少し口ごもるように、給仕が詫びた。

「申し訳ございません、戴院長。お察しの通り、実は先ほどのは夕べの物でした。ですが今日のやつは、問屋の親方が来てないんで、まだ売りに出されてないんです」

 そうですか、とがっかりした様子の宋江。

 すると李逵がいきなり立ち上がり、叫んだ。

「それじゃあ、おいらが行って二、三匹もらって来ますよ」

「まて、お前が行ったら余計にややこしくなる。給仕に頼めば良いのだ」

 戴宗が止めるのも聞かず、大丈夫ですよ、と李逵は出て行ってしまった。

 宋江はそれを見て、微笑んでいた。

「良いのですよ。さっきの博打といい、私のためを思っての事なのですから。私はあの一途なところが好きですよ」

 困っている者を見ると後先考えずに手を差し伸べてきた宋江と、少々乱暴ではあるが思ったことをすぐに行動に移す李逵。見た目からして全く違う二人なのだが、その芯の部分ではどこか通じるものがあるのだろうか。

 宋江は李逵の背中を微笑ましく見送り、戴宗はそれを心配そうに見ていた。

 

 川岸には八十艘ほどがつながれており、漁師たちは中で寝そべっていたり柳の木陰で休んでいたりしていた。

「おい、活きの良い魚を分けてくれんか」

 李逵が大声で漁師たちに言った。

 しかし親方が来ていないから駄目だ、と売ってくれる気配もない。李逵が何度頼んでも、答えは同じだった。

 ふん、と鼻息を荒簀くした李逵は一艘の舟に飛び乗った。そして漁師が慌てて止めようとした矢先、竹の簀(すのこ)を引き抜いてしまった。

 ああ、と漁師たちの悲鳴が聞こえた。

 李逵は船尾にある穴に手を入れ探ってみた。

「何だ、一匹もいないではないか」

 さらに李逵は舟を跳び渡りながら、次々と竹の簀を引き抜いてまわった。

「やい黒いの、魚を逃がしちまったな。何てことしてくれるんだ」

「何だと、魚など始めからいないではないか。おいらを騙そうってのか」

 実は船尾の穴には魚が捕らえられていた。穴に魚を入れて簀で蓋をする事で、川の水が常に循環するようにして鮮度を保っていたのだ。しかし、そうとは知らない李逵がそれを抜き、魚を逃がしてしまったという訳だ。

 李逵を止めようと漁師たちがいっせいに船に上がってきた。めいめい竹竿などを手にし、李逵に打ちかかってゆく。

「何だお前ら、やる気か」

 李逵は吼え猛ると、両手ではっしと竹竿をつかんだ。そしてまるで葱をねじ切るように五、六本の竹竿をばらばらにしてしまった。漁師たちの顔が、さっと蒼ざめた。

 今度は李逵が漁師たちに打ちかかってゆく。李逵に恐れをなした漁師たちは散り散りに逃げてゆく。まて、とそれを追う李逵。

「そこの暴れまわっている黒いの。俺たちの商売を邪魔するとは、良い度胸だな」

 何者かがそう叫び、李逵が立ち止まった。

 

 色の白い男だった。

 李逵は、その睨みつけている男に向かって駆けだした。

 男は李逵の拳をかわすと身を沈め、足をとって転がそうとした。

 しかしびくとも動かない。男はその時、水牛を相手にしているのではないかと錯覚した。

 李逵は男の頭を抑え、空(あ)いた手で背中を殴りつけた。

 鉄槌を打ちつけられたような痛みが背中を駆け抜ける。しかし、逃げようにも李逵の手は男を捕らえて離さない。

 必死に押しつぶされないよう耐えながら、男は李逵の脇腹を殴りつけた。だがぱんぱんに張った腹の皮が厚く、まるで通じていないようだ。お返しとばかりに李逵の拳が太鼓のように、男の背中を打ちつける。

 巨大な岩で背骨を砕かれるようだ。身体の芯にまで重く痛みが響く。

 もう駄目だと思った時、

「もうやめろ、鉄牛」

 という声と共に、李逵の拳が止まった。

「兄貴」

 戴宗と宋江であった。

 李逵の手が緩んだ隙に、男はその場から逃げてしまっていた。

「やっぱり喧嘩になってるではないか。また誰かを殴り殺したら、牢に入れられるんだぞ」

 わかってるよ、と戴宗に怒られる李逵が小さくなっている。

 まあまあ、と宋江がなだめる。

「魚はもう良いですから、店で飲みなおしましょう」

 三人が歩きだし、十歩も行かない所で、川の方から声がした。

「おい、待ちやがれ黒いの。今度は痛い目にあわせてやるぜ」

 舟の上に先ほどの色の白い男が立っていた。もろ肌脱ぎで練り絹のような肌をあらわにして、竹竿を手にした堂々たる立ち姿に宋江は見蕩れた。

「李逵、やめるんだ」

 と戴宗が止めたが、男はなおも挑発してくる。

 ここで逃げる奴は好漢とはいえぬ、という言葉に李逵が吼えた。

「まだ殴られ足りんのか、白いの」

 しかし相手は舟の上。李逵は、降りてこいと吼え、男は、臆病者めと笑う。

 男が李逵の足もとを竹竿で突いた。李逵は、思わずかっとなり舟に飛び乗ってしまった。

 男が、得たりという顔になる。

 そのまま竹竿で岸を突くと、舟が矢のように川の中ほどへと移動した。

 しまった、と思う李逵だったが時すでに遅し。

 できないではないが、泳ぎは得意ではないのだ。しかし捕まえてしまえば勝ちだ、と男に向かってゆく。

 男は竿を捨ててしまったが、慌てることなく余裕の表情をしていた。

「さて、お返しに水でもたらふく飲ませてやる」

 ぐい、と男が足に力を入れると舟が大波を受けたかのように傾ぎ、そのままひっくり返ってしまい、二人は川の中へと落ちた。

 必死に手足をばたつかせて顔を出す李逵の側に、水中から白い男がぬっと現れた。そして李逵を掴むと、そのまま水中へとひきずり込んでしまった。

 岸に駆けつける宋江と戴宗。まわりにも、先ほど李逵に追い回された漁師たちが集まってきていた。

 水中で白い男が、黒い李逵をもてあそんでいる。ぐるぐると白と黒が渦巻き、まるて太極の図を思わせた。

 水面に大量の泡が上がってくる。その後に続いて李逵が飛び出し、口を大きく開けて息を吸う。しかし、その肩に白い男の手がかかっていた。李逵は肘撃ちをくらわそうとするが、男は難なくかわしてしまう。

 男が、とぷんとほとんど水面を動かさずに川の中へと消えた。

 李逵は手当たり次第に水面を殴るが、大きく飛沫(しぶき)が上がるばかりだ。

 あ、という声とともに李逵が水中へと消えた。男が李逵の足を引っ張り、沈めたのだ。

 竹を難なくねじ切るその力も水中では役に立たなかった。李逵は男の手を逃れ、何とか水面に上がる事で精一杯であった。

 ぶはあ、と李逵が顔を出した。息を整え、きょろきょろとしている。

「どこだ、で、出てこい。ぶん殴ってやる」

 少し離れた場所に男が姿を見せた。

 すう、っとまるで水中にせり上がる台があるのではないか、と思うほど滑らかに頭の先から姿を現した。

 まるで水妖だ。しかし宋江と戴宗が驚いたのは、それだけではなかった。

 男の体がの臍のあたりまで水から出ていた。それだけでもあり得ない光景なのに、男は揺れる事もなくその場に立っているかのようだったからだ。そこは流れのある川の中なのだ。かたや李逵は沈むまいと、手足をばたばたさせている。

「まだ、水を飲み足りないようだな」

 これでは勝負にもならない。戴宗は止めるべく、漁師たちに男の名を問うた。

 その名を聞き、宋江は思いだした。この男が、そうだったのか。

 そして男に向けて叫んだ。

「おおい、あなたのお兄さんから手紙を預かっている。その黒い男は私たちの弟分なのだ、そのくらいで勘弁してくれぬか」

 男は目を宋江に向けた。

「俺の兄から、だと」

「そうです、あなたのお兄さん、張横どのからの手紙です」

 むう、と唸り、男は半分溺れているような李逵と宋江とを交互に見やっていた。

 

 男の名は張順(ちょうじゅん)。

 潯陽江で宋江らの命を狙った船火児こと張横の弟であった。四、五十里もの距離を泳ぐことができ、また嘘か誠か七日七晩を水の中で過ごせるという。水の中で生まれ育ったのではないのか。まるで波間を華麗に泳ぐ鮠(はや)のようだと、人は彼の事を浪裏白跳(ろうりはくちょう)と呼んだ。

 もともと潯陽江で兄である張横と組んで、追い剝ぎ船頭をしていた。

 客を乗せた後、刀を持った張横が脅しをかける。そして逆らった客を潯陽江へと突き落としてしまうのだ。この落される客の役を張順がやっていたのだ。

 そうとは知らない他の客は、すっかり怯えてしまい有り金を出してしまうという寸法だ。そして岸まで泳いでいた張順と合流するのである。

 数年前に、張順はこの稼業から足を洗っており、今は魚問屋の頭となっていたのだ。

 潯陽江で張横と和解した際に、宋江は手紙を預かっていた。張横から、弟の張順にあてた手紙だ。

 張順は宋江の言葉を聞き、李逵をむんずとつかまえると、平地を歩くかのようにこちらへとやって来た。

 岸に李逵を転がし、自分も陸へと上がると戴宗と宋江に拱手をした。

 李逵は目を白黒させながら咳きこんでいる。

「これは戴院長。この度は申し訳ありません、この男が我らの仕事場を荒らしたもので」

「うむ、この件は私の方からも詫びよう。こいつも痛い目を見て少しは懲りただろう、なあ鉄牛よ」

 きっ、と李逵が張順を睨む。

「お前、たらふく水を飲ませてくれたな」

「お前こそ、たんまり殴ってくれやがって」

 にらみ合う二人の間に戴宗が割って入る。

「まあまあ、これで雨降って地固まった訳だ。喧嘩しなきゃ仲良くなれない、ってな」

 鼻息を荒くした李逵が、

「ふん、これからは道でおいらに出くわさないようにするこったな」

 と言えば、張順も、

「ふん、じゃあ俺は水の中でお前を待ってるぜ」

 と売り文句に買い文句で、笑い合う二人。

 強き者は強き者を知るという。二人の顔には、互いの実力に対しての敬意が見て取れた。

「それで兄貴からの手紙ってのは、あんたが」

「はい、こちらです。張横どのとは、潯陽江で出会いまして」

 戴宗が宋江を紹介する。張順は、あんたが及時雨どのか、と驚いた様子だった。

「兄貴の船に乗って、無事だったんですかい」

「無事じゃなければ、ここにはおりませんよ」

 違いない、と笑う張順につられて、一同も笑った。

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