108 outlaws
布陣
四
縄をかけられた兀顔延寿は、宋江を前にしても毅然とした態度だった。
捕らえられた李逵と人質の交換を提案するため、幽州城から連れてきたのだ。
「無駄だ、梁山泊よ。父は私など死んだとみなしている。むしろ分かっているのか、お前たちがしでかしたことを。宋と遼の和議を破る事になるのだぞ」
「違います。宋朝からの贈物を、あなた方が檀州で奪ったことが発端ではありませんか。そして私たちの仲間が傷つけられた。そのための戦いです。そもそもあなた方は、臨潢府(りんこうふ)の王に対して叛乱しているとか。ならばなおさら筋違いなのでは」
ここで兀顔延寿が怒りを見せた。
「うるさい。我らの王こそが、契丹の真の王なのだ。臨潢府の連中は腑抜けてしまった。もはや国を任せてはおれんのだ」
ほう、と宋江が唸った。
なるほど、そういう理由だったのか。
宋江は目を細め、兀顔延寿を見据える。国のため、民族のため、この若者の気持ちが痛いほど分かる。
思わず呉用の顔を見たが、その目は断固として否だと言っているようだ。
兀顔延寿を牢に戻すと、呉用が静かに口を開いた。
「あの若者も、ある意味正しい事は分かります。成り行きとはいえ、遼の地で戦を始めてしまったのです。東京開封府の蔡京たち奸臣は、私たちの失態を待ち望んでいる事でしょう」
だからこそ引けないと、呉用は言う。
燕京の勢力を一掃し、奪われた金品を取り返すこと。それがこの戦を終わらせる大義であると。でなければ、徒に和議を乱したとして処罰されてしまうだろう。
そうだな、と宋江は静かに頷いた。
合流をした宣贊と郝思文が見回りをしていた。
ふたりの会話を、兀顔延寿が聞きとめた。
「おい、あんた井木犴というのか」
突然のことに反応できずにいる郝思文に、兀顔延寿はもう一度言った。
井木犴という渾名なのかと。
「だとしたら、なんだというのだ」
「いや、少し気になっただけだ」
そう言われると、余計に聞きたくなるものだ。
郝思文が問いただすと、兀顔延寿が口の端を歪めた。
「我らの将にも、井木犴という渾名の将がいる。ただそれだけだ」
「その者は何という名なのだ」
「聞いてどうするというのだ」
「どうするもないが」
「おかしな男だ、まあ良いだろう。童里合という。満足か」
童里合か。しばし郝思文はあらぬ方向を見つめていた。
「郝思文、行くぞ。こ奴の言う通り気にする事はない、偶然さ」
宣贊の言葉に、郝思文もその場では自分を納得させた。
寝ようとした郝思文だったが、どうにも落ち着かない。酒を飲んでみたが、なおさら様々な思いが頭を巡る。
気にするな。自分に言い聞かせるが、駄目だ。
顔も知らない童里合という男のことをどうしても考えてしまう。
同じ渾名。同じ井木犴。
母の胎内に井宿が宿る夢を見たことからついた渾名だ。それに誇りを持っていた。
同じ渾名。関勝を思い浮かべた。
かつて、大刀という渾名を聞達に奪われていた。
関勝にとっては大したことではないようだったが、郝思文はそうではなかった。
狭量だと言われればそれまでだが、譲れないものがある。
敵が敷いている太乙混天象の陣、井宿ならば南に属する。童里合は、そこにいるだろう。
郝思文は窓から夜空を見上げた。
満天の星が綺麗だった。
「断じて交渉に応じてはならん。息子は遼の面汚しだ、捨て置け」
梁山泊から人質交換の使者がきた。だが兀顔光は厳然と言い放った。
本当に良いのか、と王さえたじろいだ。
縄で雁字がらめにされた李逵の元に、兀顔光が現れた。
戦場で黒い嵐の如く暴れていたと聞き、興味を持った。その怪異な風貌と、それに似合わぬ童子のような眼(まなこ)に興味を持った。
「なんだよ、じろじろ見やがって」
恐ろしい姿だが、口調はどこか子供じみている。
「これはすまない。大層、暴れてくれたから、どんな男かと思ってな」
「はん。こうして捕まらなきゃ、お前らの糞親分も叩っ斬ってやってたのによう」
冗談などではないのだろう。この男ならば、本当にやりかねないと思えた。
「人質の交換の提案があったが、断った」
「へっ、宋江の兄貴のためなら、いつだって命を捨てる覚悟なんざできてらあ」
そして、ぐずりと鼻を鳴らした。
「そうは言っても、やはり死にたくはないのだな」
「違(ちが)わい。おいら嬉しくってよ。宋江の兄貴は、おいらを助けだそうとしてくれた。捕まっちまったのは、おいらがへましたからなのに。やっぱり宋江の兄貴は優しいなあ」
この李逵という男に兀顔光は惹かれるようであった。
鬼神のようだが、とても純粋だ。そしてこの李逵が心酔する、宋江とはどれほどの人物なのか。
及時雨という名は遠く遼の地にまで届いていた。
あの時に提案した招安を、偽りではなく宋江が受けていたら。
そう考えたが詮無きこと。もし、などというあり得ない事を、頭から追いだした。
どのみち明日の戦で決まるだろう。
「おい」
去りかけた兀顔光の背に、李逵が言った。
「梁山泊はあんなもんじゃないぞ。今日はちょっと調子が悪かっただけだ。宋江の兄貴たちが本気を出せば、お前たちなんていちころだからな」
「面白い。次はもっと楽しませてもらおう」
梁山泊よ、この男の言う通りならば、本気を出してみせろ。
そしてそれを正面から叩きのめしてみせる。
契丹人の力を心に刻みつけながら、果てるが良い。
「あ奴をとっとと処刑してしまえ、統軍」
どこで見ていたのか、褚堅がそう訴えてきた。
その目は、ひどく怯えているようだった。
見苦しい男だ。
兀顔光は褚堅の襟首を掴むと、無言で放り投げた。
背を打った褚堅が、言葉にならない言葉で何か叫んでいた。
それを一瞥すらせずに、兀顔光は立ち去った。
李逵という男、敵ながら気に入った。あれほどの男、遼でもあまり見なくなった。
さあ、存分に力を出させてくれよ。
兀顔光の顔に笑みが浮かんでいた。
太乙混天象の陣は、変わらずそこに鎮座していた。
雲梯から朱武がそれを望む。
臆するな。援軍の到着により兵力は、負けてはいるものの、増えてはいる。
朱武の目に土煙が見えた。敵の新手か。
いや、あれは王文斌だ。本当に戻ってきてくれたのだ。
「待たせてしまったな、梁山泊。遼の連中にひと泡吹かせてくれよう」
梁山泊の陣をかすめるようにして、王文斌軍が遼軍へ向かった。
「待て、逸るな」
盧俊義の叫びも届かず、王文斌は疾駆する。
敵陣は動かない。北陣が開き、遼兵と玄武水星の曲利出清が飛び出した。
王文斌は槍をしごき、雄叫びをあげる。
「来たか賊将め」
「雑魚が邪魔をするな」
槍と刀が火花を散らす。宋兵と遼兵も四方でぶつかり合う。
王文斌の槍が幾度も曲利出清を追い詰める。だが敵もさるもので、右へ左へと刀を舞うように使う。
一進一退の攻防が続く。梁山泊が援護を送ろうとした時だ、曲利出清がふいに馬首を返した。
「逃がさぬ」
王文斌がそれを追う。
追うな、と朱武が叫ぶ。鉦を鳴らすが、王文斌は駆け続ける。宋朝への侮辱に怒りを燃やしているのだ。
曲利出清の背に狙いを定めた。
背を見せたまま、曲利出清の右手だけが動いた。
何が起きた。
気付くと、王文斌の体から血が噴き出していた。
奴に、槍を突き立てようとしてたはずだ。
体が、熱い。
王文斌の肩から腹にかけてが、斬り裂かれていた。
落馬した王文斌を宋兵が救い出すが、すでにこと切れていた。
盧俊義が慟哭した。
曲利出清が血のついたままの刀を上げ、吼えた。
それを合図に、太乙混天象の陣が動きだした。
「宋江どの、呉用どの」
朱武が叫ぶ。
宋江が旗を振る。
梁山泊の九宮八卦の陣も、動きだした。
兀顔光が指示を飛ばしながら、ゆっくりと馬を進める。
梁山泊軍も動き出した。
ふいに兀顔光の表情が険しくなり、そして微かに笑みを浮かべた。
「どうした、統軍」
様子に気付いた王が声をかける。
横の褚堅は憎悪の籠った視線を、兀顔光に向けている。
振り返りもせず、何でもございません、と兀顔光は答えた。
何でもないはずがない。
梁山泊軍の姿を見て、兀顔光は震えたのだ。
梁山泊兵たちの軍装が、昨日とうって変わっていた。
遼軍とものと同じように、各隊ごとに色が分けられているものだった。
果たしてそれだけで勝てると思っているのか。
両軍の軍鼓が戦場に、高らかに鳴り響いた。
決戦の時が来た。