
108 outlaws

疾駆
三
馬霊軍の兵が悲鳴を上げて、地面を転げまわっている。
助けてくれえ。
火が、火が、と叫び阿鼻叫喚の様子だ。
しかし楊志の目には、火など見えない。戴宗も同じようで当惑した顔だ。
「静まれいっ」
馬霊が大音声で言い放った。
途端に、兵たちの体から火が消えた。
「幻だ。未熟者どのが」
炎は幻。公孫勝の放った炎は金磚だけを狙ったものだったのだ。
公孫勝を睨む馬霊。
小癪な真似を。だが奴の底が知れた。実際に術で焼くこともできたはずだ。だがそうしなかった。
その甘さが、命取りだ。
馬霊が両手を広げると、再び無数の金磚が現れた。
喰らえ、と金磚が襲いかかる。
今度は公孫勝が古定剣を天に向けた。そして剣先から光が放射状に放たれた。またもや金磚が燃え、灰になる。
公孫勝が光を見た。馬霊が持つ、戟の刃だ。この一瞬で目の前まで駆けていたのだ。
公孫勝の袖が斬られた。血は、辛うじて出ていない。
梁山泊軍から悲痛な声が上がる。だが怪訝そうな顔をしたのは、馬霊だった。
確かに戟で捉えたはず。避ける暇も、距離もなかった。
馬霊は再び戟を振るった。戟の猛攻が、嵐のように公孫勝を襲った。
何十回、斬り付けたのだろうか。離れた馬霊は、肩で息をしている。
だが一方の公孫勝は、道服がいささか切り裂かれていたが、傷ひとつなかった。
やはりおかしい、確実に手ごたえはあったのだ。
樊瑞の幻術だ。
戴宗が呟いた。おそらく樊瑞に教わったのだ。
顔を紅潮させ、馬霊が吼えた。馬霊がとてつもない気を発した。
公孫勝の眉がぴくりと動いた。
吼え続ける馬霊の額に変化が起きた。額に筋が入り、それが徐々に割れ、光が漏れ出した。
そこに現れたのは目だった。
馬霊の額に第三の目が出現した。
額の目が公孫勝をぎろりと睨んだ。
公孫勝が居た場所には、誰もいなかった。実際の公孫勝は、離れた場所で微動だにしていなかったのだ。
「なるほど、幻か。姑息な手を使いおって。だがもう通じぬ」
今度こそ、終わりだ。
広げた両手に合わせてまたも金磚が現れた。
馬霊が爪先に力を込めた。輪が勢い良く回転し、馬霊が風のように走った。
戟が公孫勝を襲う。
さあどうする。この目に幻は効かぬぞ。
公孫勝が素早く、剣を天に向けた。黒雲が巻き起こり、そこから雷(いかずち)が放たれた。
馬霊は輪を上手く操り、雷をかわす。そして金磚を放った。半数は雷で落とされたが、残りが公孫勝めがけて飛ぶ。
公孫勝は迫る金磚を、古定剣で弾いた。だがそれは落ちずに空中に戻り、再び公孫勝を襲う。
ふいに公孫勝が古定剣を胸に抱えるようにした。
そして一喝。
まるで公孫勝から光が発せられたように見えた。光を浴びた金磚は、命を失ったようにぽとりぽとりと地に落ちていった。
金磚では仕留められぬか。だが。
走る馬霊が再び叫んだ。次の瞬間、馬霊が炎のような赤い光に包まれた。
戦いの様子を見ていた戴宗が歯嚙みした。
足が動かない。怖気づいてしまっている。
「無理をするな」
傍らの楊志が言った。
「お主が神行法を使えようと、あの戦いでは却って足手まといだ」
神行法を否定された。戴宗が楊志を睨むようにした。
だが、と楊志が続けた。
「その時は、来る。それまで待つのだ」
楊志も助勢したいのだ。それをぐっと堪えているのだ。楊志の言う通りだ。あの術の中では、自分は役に立たない。
楊志の目は決して諦めているものではなかった。
戴宗は自分を落ち着かせ、二人の戦いに目を戻した。
赤い光と化した馬霊が公孫勝とぶつかった。
だが馬霊は、三つの目を見開いた。
戟を、木製の古定剣が受け止めているのだ。古定剣が光を湛えていた。
「ぐぬう、おのれええ」
馬霊が足に力を込め、戟を押しこむ。だが戟はそれ以上押し込めず、輪が空回りしてしまう。
「終わりにしましょう」
公孫勝の目が、馬霊の目を捉えた。
ぞくりと感じた次の瞬間、公孫勝の目が光った。
突風のような光で、馬霊が吹き飛ばされた。上下左右が分からぬほど、ぐるぐると空中を舞った。
落ちる寸前で、なんとか体勢を整えた馬霊。着地した後も勢いは衰えず、必死に踏ん張り、やっと止まった。輪によって抉(えぐ)られた跡が、地面に数丈ほど残されていた。
馬霊に向かって、公孫勝が馬を進めた。
唸る馬霊。体が重い。第三の目も閉じてしまった。金磚を出す力もない。
奴に勝てぬというのか。
どうする。どうするのだ。
悠然と、公孫勝が近づいてくる。古定剣が揺れた。
こうなれば。
馬霊が背を向け、足の輪を踏み込んだ。
逃げるしかない。
力を使い切る前に、遠くへ。そして威勝まで戻るのだ。
その時、梁山泊陣営からも、ひとつの影が飛び出した。
ここだ。
その時は、今だ。
「逃さぬぞ」
戴宗、渾身の神行法であった。
馬霊の背が見えた。
だがもう少しのところで、手が届かない。
甲馬は八枚。最高速度だ。
足よ、もっと速く。戴宗が歯を食いしばる。
馬霊が気配に気づいた。
「なんだ貴様。むう、貴様も神行の術を使いおるか。しかし無駄なこと」
馬霊が輪を踏み込むと、さらに速度が上がった。戴宗との距離が離れてゆく。
「くそお。待て」
負けてたまるか。必死に駆ける戴宗。
馬霊との距離が徐々にであるが、狭まってくる。もう一息だ。
手を伸ばした。馬霊の衣に、指先が触れた。あと一歩。
吼える戴宗。
掴んだ。ついに掴んだ。
馬霊は振り払おうと、急に方向を変えた。
戴宗は足がもつれ、転びそうになった。だが馬霊の衣を離さなかった。
「こいつ、しつこい野郎だ。だがいつまで耐えられるかな」
戴宗が地面に倒れ、引きずられてしまう。
顔が、体が、腿が、ものすごい勢いで擦られ、血塗れになった。
離してしまいたい。だが離すものか。
これに耐えられなきゃ、李逵に笑われちまう。なあ鉄牛よ。
痛みに耐えながらそう考えると、少し力が湧いてきた。
馬霊が戴宗を見る。
何故だ。何故、離さない。
さらに馬霊が右へ左へと走り、振り落とそうとする。戴宗はすでに骸のように引きずられるだけだ。だが、その手はしっかりと馬霊の衣を掴んだままだった。
馬霊は、そら恐ろしさを感じた。
もっと速く走らねば。
馬霊が前を向いた。
眼前に巨大な影があった。
突如、馬霊の首がその影に掴まれた。
急に止められた反動で、背骨が折れるのではないかと思った。
馬霊の首を掴むのは太い腕だった。
その影は体躯も大きく、馬霊を掴んだままじっと見ている。
「な、何者、だ」
絞り出すように、馬霊が呻く。
影は優しい目で戴宗をちらりと見た。
「わしか。わしはただの坊主だ。ちと、道に迷ってしまってな」
その影、花和尚の魯智深が言った。