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疾駆

 馬霊軍の兵が悲鳴を上げて、地面を転げまわっている。

 助けてくれえ。

 火が、火が、と叫び阿鼻叫喚の様子だ。

 しかし楊志の目には、火など見えない。戴宗も同じようで当惑した顔だ。

「静まれいっ」

 馬霊が大音声で言い放った。

 途端に、兵たちの体から火が消えた。

「幻だ。未熟者どのが」

 炎は幻。公孫勝の放った炎は金磚だけを狙ったものだったのだ。

 公孫勝を睨む馬霊。

 小癪な真似を。だが奴の底が知れた。実際に術で焼くこともできたはずだ。だがそうしなかった。

 その甘さが、命取りだ。

 馬霊が両手を広げると、再び無数の金磚が現れた。

 喰らえ、と金磚が襲いかかる。

 今度は公孫勝が古定剣を天に向けた。そして剣先から光が放射状に放たれた。またもや金磚が燃え、灰になる。

 公孫勝が光を見た。馬霊が持つ、戟の刃だ。この一瞬で目の前まで駆けていたのだ。

 公孫勝の袖が斬られた。血は、辛うじて出ていない。

 梁山泊軍から悲痛な声が上がる。だが怪訝そうな顔をしたのは、馬霊だった。

 確かに戟で捉えたはず。避ける暇も、距離もなかった。

 馬霊は再び戟を振るった。戟の猛攻が、嵐のように公孫勝を襲った。

 何十回、斬り付けたのだろうか。離れた馬霊は、肩で息をしている。

 だが一方の公孫勝は、道服がいささか切り裂かれていたが、傷ひとつなかった。

 やはりおかしい、確実に手ごたえはあったのだ。

 樊瑞の幻術だ。

 戴宗が呟いた。おそらく樊瑞に教わったのだ。

 顔を紅潮させ、馬霊が吼えた。馬霊がとてつもない気を発した。

 公孫勝の眉がぴくりと動いた。

 吼え続ける馬霊の額に変化が起きた。額に筋が入り、それが徐々に割れ、光が漏れ出した。

 そこに現れたのは目だった。

 馬霊の額に第三の目が出現した。

 額の目が公孫勝をぎろりと睨んだ。

 公孫勝が居た場所には、誰もいなかった。実際の公孫勝は、離れた場所で微動だにしていなかったのだ。

「なるほど、幻か。姑息な手を使いおって。だがもう通じぬ」

 今度こそ、終わりだ。

 広げた両手に合わせてまたも金磚が現れた。

 馬霊が爪先に力を込めた。輪が勢い良く回転し、馬霊が風のように走った。

 戟が公孫勝を襲う。

 さあどうする。この目に幻は効かぬぞ。

 公孫勝が素早く、剣を天に向けた。黒雲が巻き起こり、そこから雷(いかずち)が放たれた。

 馬霊は輪を上手く操り、雷をかわす。そして金磚を放った。半数は雷で落とされたが、残りが公孫勝めがけて飛ぶ。

 公孫勝は迫る金磚を、古定剣で弾いた。だがそれは落ちずに空中に戻り、再び公孫勝を襲う。

 ふいに公孫勝が古定剣を胸に抱えるようにした。

 そして一喝。

 まるで公孫勝から光が発せられたように見えた。光を浴びた金磚は、命を失ったようにぽとりぽとりと地に落ちていった。

 金磚では仕留められぬか。だが。

 走る馬霊が再び叫んだ。次の瞬間、馬霊が炎のような赤い光に包まれた。

 戦いの様子を見ていた戴宗が歯嚙みした。

 足が動かない。怖気づいてしまっている。

「無理をするな」

 傍らの楊志が言った。

「お主が神行法を使えようと、あの戦いでは却って足手まといだ」

 神行法を否定された。戴宗が楊志を睨むようにした。

 だが、と楊志が続けた。

「その時は、来る。それまで待つのだ」

 楊志も助勢したいのだ。それをぐっと堪えているのだ。楊志の言う通りだ。あの術の中では、自分は役に立たない。

 楊志の目は決して諦めているものではなかった。

 戴宗は自分を落ち着かせ、二人の戦いに目を戻した。

 赤い光と化した馬霊が公孫勝とぶつかった。

 だが馬霊は、三つの目を見開いた。

 戟を、木製の古定剣が受け止めているのだ。古定剣が光を湛えていた。

「ぐぬう、おのれええ」

 馬霊が足に力を込め、戟を押しこむ。だが戟はそれ以上押し込めず、輪が空回りしてしまう。

「終わりにしましょう」

 公孫勝の目が、馬霊の目を捉えた。

 ぞくりと感じた次の瞬間、公孫勝の目が光った。

 突風のような光で、馬霊が吹き飛ばされた。上下左右が分からぬほど、ぐるぐると空中を舞った。

 落ちる寸前で、なんとか体勢を整えた馬霊。着地した後も勢いは衰えず、必死に踏ん張り、やっと止まった。輪によって抉(えぐ)られた跡が、地面に数丈ほど残されていた。

 馬霊に向かって、公孫勝が馬を進めた。

 唸る馬霊。体が重い。第三の目も閉じてしまった。金磚を出す力もない。

 奴に勝てぬというのか。

 どうする。どうするのだ。

 悠然と、公孫勝が近づいてくる。古定剣が揺れた。

 こうなれば。

 馬霊が背を向け、足の輪を踏み込んだ。

 逃げるしかない。

 力を使い切る前に、遠くへ。そして威勝まで戻るのだ。

 その時、梁山泊陣営からも、ひとつの影が飛び出した。

 ここだ。

 その時は、今だ。

「逃さぬぞ」

 戴宗、渾身の神行法であった。

 馬霊の背が見えた。

 だがもう少しのところで、手が届かない。

 甲馬は八枚。最高速度だ。

 足よ、もっと速く。戴宗が歯を食いしばる。

 馬霊が気配に気づいた。

「なんだ貴様。むう、貴様も神行の術を使いおるか。しかし無駄なこと」

 馬霊が輪を踏み込むと、さらに速度が上がった。戴宗との距離が離れてゆく。

「くそお。待て」

 負けてたまるか。必死に駆ける戴宗。

 馬霊との距離が徐々にであるが、狭まってくる。もう一息だ。

 手を伸ばした。馬霊の衣に、指先が触れた。あと一歩。

 吼える戴宗。

 掴んだ。ついに掴んだ。

 馬霊は振り払おうと、急に方向を変えた。

 戴宗は足がもつれ、転びそうになった。だが馬霊の衣を離さなかった。

「こいつ、しつこい野郎だ。だがいつまで耐えられるかな」

 戴宗が地面に倒れ、引きずられてしまう。

 顔が、体が、腿が、ものすごい勢いで擦られ、血塗れになった。

 離してしまいたい。だが離すものか。

 これに耐えられなきゃ、李逵に笑われちまう。なあ鉄牛よ。

 痛みに耐えながらそう考えると、少し力が湧いてきた。

 馬霊が戴宗を見る。

 何故だ。何故、離さない。

 さらに馬霊が右へ左へと走り、振り落とそうとする。戴宗はすでに骸のように引きずられるだけだ。だが、その手はしっかりと馬霊の衣を掴んだままだった。

 馬霊は、そら恐ろしさを感じた。

 もっと速く走らねば。

 馬霊が前を向いた。

 眼前に巨大な影があった。

 突如、馬霊の首がその影に掴まれた。

 急に止められた反動で、背骨が折れるのではないかと思った。

 馬霊の首を掴むのは太い腕だった。

 その影は体躯も大きく、馬霊を掴んだままじっと見ている。

「な、何者、だ」

 絞り出すように、馬霊が呻く。

 影は優しい目で戴宗をちらりと見た。

「わしか。わしはただの坊主だ。ちと、道に迷ってしまってな」

 その影、花和尚の魯智深が言った。

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