
108 outlaws
疾駆
四
真っ暗で、何も見えない。
沁水にて趙員外の親族と出会った後、穴に飲みこまれた。
しばらく気を失っていたようだが、目を覚ましてみても真っ暗だった。感じる空気から洞窟の中のようだと思った。
魯智深が、ゆっくりと立ち上がってみる。頭はぶつからない。手を伸ばすと、指先に天井が触れた。
慎重に進んでゆくと、やがて前方に微かな光が見えた。
そして光に辿り着いた。
「これは奇っ怪な」
そこはまるで外界のようだった。空があり、日が照っていた。だが魯智深には、そこが穴の中である事が何故か分かっている。
人家もあり、人の姿がいくつかあった。人々はこちらを見て笑いかけているようだが、顔がぼんやりとしていてはっきりとしない。だが穏やかな雰囲気を、魯智深は感じ取った。
そこを過ぎると広い野原に出た。
一体、どこなのか。
しばらく歩いていると、小さな草庵が見えてきた。中から木魚の音が聞こえてくる。
中で小柄な和尚が、経を唱えていた。
魯智深が、出口を訊ねると、
「来るは来る処より来て、去るは去る処より去る」
と言った。
魯智深は訳が分からず、むっとしてしまう。
和尚は笑って、ここがどこだか分かるか、と聞いてきた。
もちろん知る由もない。それを聞いているのだ。
「上は悲悲想に到り、下は無間地に至る。世界は広大無辺で、人が知ること能わず」
和尚は続ける。
「凡そ人皆心有りあり、心有れば必ず念有り。地獄、天堂、皆念より生ず。故に三界は惟れ心なり、万の法も惟れ識なり。一念生ぜざれば、六道俱に消え輪回斯に絶つ」
なるほど、と魯智深が悟った。
和尚は笑みを湛えたまま、
「お主は縁纏井に落ちこみ、どうやら欲迷天から抜け出せぬようだ。わしが道を教えてやろう」
魯智深は和尚に連れられ、草庵の外へ出た。
だが四、五歩言ったところで、ここでお別れだ、と言う。
和尚は前を指さし、
「真っすぐ行きなさい。さすれば神駒を手に入れることができよう」
と笑った。
魯智深が振り返ると和尚の姿は無く、いずれまた会える事もあろう、という声だけが聞こえた。
ふいに風景が変わり、また見知らぬ地にいた。
そして、目の前に突然凄い勢いで駆けて来る者が現れたので、おもわず掴んでしまった。
首を掴まれた馬霊は、逃れようともがく。だが鉄枷のように、魯智深の手は外れることはない。
魯智深は戴宗と馬霊を交互に見やる。
「どうやらわしらの敵のようだな。まあ、命までは奪わん。だが、わしの説法はちと痛いぞ」
大きな拳固を振り上げ、馬霊の顔面に叩き込んだ。
馬霊が吹っ飛び、嗚咽を漏らすことすらなく気を失った。
魯智深は、空を睨んでいた。殴った瞬間、なにか黒い影が、馬霊から抜け出たように見えたのだ。
魯智深は後で知り、大声で笑った。
馬霊が神駒子と呼ばれている事を。
汾陽での戦いは梁山泊の勝利に終わった。
馬霊が敗北し、田虎軍は散り散りになった。田豹はすでに逃亡していた。おそらく威勝へ向ったのだろう。
「いやあ、久方ぶりの酒だ。腹に沁みるのお」
大椀を飲み干した魯智深が、実に嬉しそうに笑った。
しかしよ、と同じく杯を空けた鄧飛が言う。
「その和尚ってのは一体誰なんだい。それに、え、縁纏井って言ったっけ。それって結局何なんだよ」
「あの和尚が誰なのかは、わしにもわからん。また会えるとか言っていたので、そのうち分かるだろうて。縁纏井はそうだな、因業の井戸と言えば良いかな。わしは欲の塊だから迷い込んでしまったようだ。お主らもいつか迷い込むかもしれんぞ」
急に怖い顔で脅かすように言うと、
「なあに、冗談じゃ冗談」
と大笑した。
「勘弁してくれよ、魯智深の旦那」
鄧飛が珍しく弱音を吐くと、欧鵬や楊志も笑った。
微笑みながら公孫勝が口を開く。
「凡そ人皆心有りあり、心有れば必ず念有り地獄、天堂、皆念より生ず。すべては私たちの思念が生み出したものという訳ですね」
「流石は公孫勝。しかし、人は考えることなしには生きられん。それが悪いことなのだろうか。和尚に言われたように、坊主のわしからして欲の塊じゃ。いまも、旨い酒を飲みたい、美味い肉を食いたいと思っている。そして」
そう言って、杯をぐびりと空け、羊肉に齧りつく。
そして優しい目で一同を見回した。
「なにより、お前たちと楽しい時を過ごしたいと思っている」
鄧飛も楊志もしんみりとした顔になる。
「おい、そんなつもりで言ったのではないぞ。さあ、飲むぞ飲むぞ」
取り繕うような魯智深に、場が笑いに包まれた。
鄧飛が酒甕を抱きかかえて来た。
「俺も飲みたい欲に駆られちまったぜ。魯智深の旦那、久しぶりに飲み比べといこうじゃないか」
「そう来なくては」
「待ってくれ」
と声を上げたのは陳達だ。
「初対面では負けちまったが、今日はそうはいかないぜ」
「誰でもかかって来い。負ける気などせんわ」
次々と杯を空ける三人に、いつまでも喝采が止まなかった。
負けた。
勝てると考えていたことが恥ずかしいほど、圧倒的な力だった。
そして、逃げた。
だが逃げることすら叶わなかった。
なんという、己の小ささよ。
寝台に横たわったまま、馬霊が天井を見つめ、思う。
喬道清の声がした。
「目が覚めたか」
どっちの意味合いで言ったのかは、分かりかねた。
馬霊が黙っていると、
「負けるはずがない。私は昔から思っていたのだ」
独白するように、喬道清が小さな声で話し始めた。
若き日の傲慢さ、葛藤、公孫勝への嫉妬。そして魔に見染められ、己こそが最強だと思いこんだ。
「疎んでいたはずの弟弟子に救われるとはな」
喬道清の言葉に、馬霊の頭に様々な思いが渦巻いていた。
馬霊の傷が癒える頃、戴宗がやってきた。
何をしに来た。復讐か。
体中に巻かれた包帯が、自分よりも痛々しいではないか。
「あの法を、早く走る法を教えて欲しい」
戴宗は真摯な目で馬霊を見つめた。
驚いた。敵であった自分に教えを請うというのか。
もう一度、戴宗が請うた。
馬霊は、
「わしで良いのか」
と聞いていた。
梁山泊軍に残るには、充分な理由だった。