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激突

 夜が明けた。

 韓滔は、まんじりともせず朝を迎えた。彭玘の事が頭から離れなかった。

 生きていると思いたかったが、その考えは捨てる事にした。

 韓滔の目には、朝日を浴び、目を覚ました梁山泊が映っていた。

「そこにいたのか」

 背後から呼延灼が近づいてきた。

「お前、ひと晩中」

「申し訳ございません」

 呼延灼が横に並んだ。その目はやはり梁山泊を見ている。

 しばし沈黙の刻が流れた。

 やがて呼延灼が梁山泊に背を向けた。韓滔もそれに続いた。

「昨日の戦は、負けだ。梁山泊を陥(お)とすどころか大きな犠牲を出し、彭玘まで失った」

 韓滔は無言である。

「初めから全力で潰すべきだったのだ。奴らの力を甘くみた、わしの責任だ。今朝ほど、開封府から連絡があった。実は、ある男をここへ呼んでいた。その男がじきに到着するとの事だ」

 ある男、というのが誰なのか気にはなったが、韓滔は黙ったまま呼延灼を見つめていた。

「今日の戦いには本隊を投入する。全力を持って梁山泊を叩き潰す」

 居並ぶ三千の騎兵、五千の歩兵が地平を埋め尽くしていた。

 呼延灼が鞭を手に、鬨の声を上げた。

 兵たちの呼応が、大地をどよもすように朝の静寂を破った。

 韓滔は思わず、身震いをした。

 踢雪烏騅が、大きく嘶いた。

 

 二竜山の寨、頭領の間に重苦しい空気が漂っていた。

 楊志が腕を組み、眉間に深く皺を刻んでいる。その楊志を睨みつけるように、魯智深も腕を組んでいた。

 先日、官軍が梁山泊討伐隊を出した、との報が飛び込んできた。

 それだけでは驚きはしなかった。なにせ梁山泊は祝家荘を陥落させ、高唐州の知府である高廉まで手にかけたのだ。

 官軍が討伐隊を出すのは必然と言えよう。

 だが驚いたのは、討伐隊を率いるのは呼延灼である、という一点であった。

「やはり助けには行かんというのか、楊志」

「そうだ。それに今からでは間に合わん。呼延灼軍は、すでに梁山泊を包囲しているのだ。仮に我らがたどり着いたとしても、その時にはすでに勝敗は決しているだろう」

「だからといって行かんのか。あそこには、梁山泊にはわしの義弟の林冲がいるのだ。あいつの危機に、わしはいつでも駆けつけると誓ったのだ。おい武松、お前も梁山泊には恩人がいるのだろう。お前からも何とか言ってくれ」

 楊志と魯智深は、何度も同じやり取りを繰り返していた。それまで黙っていた武松が、やっと口を開いた。

「ああ、宋江どのがいる。駆けつけたい気持ちは俺も同じだ。しかし楊志の言う通り、今からでは間に合わない。それにもし、もしもの話だが、梁山泊が敗れれば、次に標的になるのは我らだ。いまはそれに備える時だと、俺は思う」

 魯智深が掴みかからん勢いで、武松に詰めよる。

「梁山泊が負けるというのか。林冲が負けるというのか」

 魯智深が吼える。楊志が、武松との間に割って入った。

「曹正と張青には、それぞれ物資と食料を確保するように言ってある。孫二娘は桃花山、白虎山との連携のために走ってもらっている。俺たちは俺たちの寨を、仲間をまずは守らねばならんのだ」

 ぐぬう、と魯智深が呻いた。

「俺も林冲とは戦った事があるから言えるのだが、あの男が簡単に負けるはずがない。お主も良く知っているだろう、あの男の強さを。信じるのだ、魯智深。いまは、信じるしかないのだ」

 魯智深が酒瓶をひったくるようにして取り、大きな口を開けて酒を流しこんだ。

 かあ、と大きく息を吐いた。

「信じているわい。だが、じっとしておれんのだ、分かるだろう。お前たちが行かぬなら、わしひとりで行くからな」

 魯智深はそう叫んで、本当に出て行ってしまった。

 残された楊志と武松は、思わず顔を見合わせた。

「心配ない、戻ってくるさ。じっとしていられない、というのが魯智深の本音だろう。心配なのだ、林冲の事が」

 楊志の言葉に、武松は無言で頷いた。

 二竜山から飛び出した魯智深は、西へと向かった。青州府(せいしゅうふ)を越え、梁山泊に向かおうというのだ。

「こんな所で何をしているのです、魯の兄貴」

 しばらく行った山道である。馬に乗った李忠に声をかけられた。

「お主こそ何をしている。もしかすると呼延灼が攻めてくるのかもしれんのだぞ」

「ええ、分かっていますよ。前も言いましたが、そのための馬を買い付けに、周通が出向いているのですが、まだ帰って来んのです。だからこうして見回りに出てるのですよ」

「なるほど。何かあったのでなければよいのだがな」

「ところで、兄貴は何を」

「ふむ、わしか。わしは」

 魯智深は何とかごまかそうとした。だが上手い方便も思いつかなかった。

「梁山泊へひとりで、ですか。まったく兄貴って人は」

 呆れたような言い方だったが、李忠の顔は嬉しそうだった。

「無茶はしないでくださいよ」

「なんだ、止めんのか」

「止めて欲しいのですか」

「いや、そう言う訳では」

「大方、楊志どのや武松どのの制止を振り切って来たんでしょう。わしなどが止められる訳がありませんよ」

 ぬう、と魯智深が唸った。正解である。

「助けに駆けつけたい気持ちはやまやまでしょう。しかし二竜山の兵たちは、兄貴を信じているのですよ」

「ふん、坊主のわしに説教をするとはな」

「そんなつもりでは」

 魯智深の顔が、ぬっと李忠の顔に近づいた。

「わかった。わしは二竜山の魯智深だ。林冲を信じる事にする。これで文句はあるまい」

 にこりと微笑み、李忠は去って行った。もう少し、見回りをして行くという。

「しみったれた男だと思っていたが、いっぱしの頭領になりおって」

 馬に揺られる李忠を見送りながら、魯智深が嬉しそうに口の端(は)を歪めた。

 二竜山への道を戻っていると、背後から誰かが駆けてきた。

「魯智深の兄貴」

 それは施恩だった。梁山泊と呼延灼軍との戦の偵察に送り出されていたのだ。

 施恩は息を切らし、金色(こんじき)の瞳を魯智深に向けた。

「どうしたのだ」

 魯智深の大きな手が、施恩の細い肩をがっしりと掴んだ。

 施恩は少し言い淀み、唾を飲み込んだ。

「梁山泊が、負けるかもしれません」

「なんだと」

 魯智深が大きく目を見開き、施恩の目を覗き込んだ。

 施恩の目も、真っ直ぐに魯智深を見ていた。

 払暁。

 梁山泊軍が出陣した。

 先陣の隊は、昨日と同じ五人が率いる。中央に秦明を配し、左右にそれぞれ林冲、扈三娘そして花栄、孫立である。

 花栄は、おやと思った。

 対する敵兵は、歩兵が一千ほどだけで騎兵が見あたらない。敵はひたすら軍鼓を鳴らし、喊声をあげるだけで攻撃してくる気配がない。

 林冲もそれを感じ取ったようだ。

「秦明、何かおかしい。迂闊に攻めるなよ」

「分かっている。確かに、嫌な予感がするな」

 頭に血が上りやすい秦明だが、さすがに一流の武人である。呼延灼軍の不穏な様子に、駆けだしたい衝動を抑えていた。

 ふいに軍鼓の叩き方が変わった。

「来るぞ」

 花栄が叫んだ。扈三娘、孫立が身構えた。

 眼前の歩兵隊が割れた。その後ろから騎兵が飛び出してきた。

 林冲はそれを見て、手綱を引いた。

「あれは」

 昨日の戦いで現れた、全身を甲(よろい)で包んだ騎兵隊だった。

 三十騎ほどが横一列に連なっている。馬に付けた甲に鎖を通し、離れないように繋がっている。

 連環馬の計。

 矢も槍も刀も通じない鉄の塊が押し寄せる様は、恐怖そのものであった。

「退けい。突っ込んではならん、退がるのだ」

 秦明が叫ぶ。

 向かってくる中央の連環馬兵は槍を構え、土煙と共に突進してくる。左右の騎兵隊が矢を乱射してきた。梁山泊の兵が次々に矢に倒れてゆく。

「撹乱するのだ。足でかき回せ」

 孫立が指示を出し、先頭に立って駆ける。中央の連環馬を避けるように回りこもうとする。連環馬は横に繋がれているため、方向転換が容易にはできないからだ。

 しかし左右の二隊が中央の隊と連結した。横に九十騎が並び、戦場いっぱいに広がった。

 回避する場所がない。覚悟を決めた梁山泊の兵たちは槍や刀を突き立てるが、連環馬の甲に阻まれてしまう。そして馬もろとも、兵たちが連環馬に踏み潰されてゆく。

「お前たち」

 秦明が馬首を返し、戻ろうとする。

「駄目。行っては駄目よ、秦明どの」

 横から飛び出した扈三娘がそれを止める。連環馬が視界を覆うように迫っている。

「林の中に入るのだ。急げ」

 秦明の号令で、兵たちが林に駆けこむが、その間にも連環馬は止まることなく、逃げ遅れた梁山泊兵を飲み込んでゆく。

 秦明も馬を急かした。しかし林に逃げこむ時間がない。

「急げ、急ぐのだ、秦明」

 林冲が叫ぶ。花栄と扈三娘は何とか避難できたようだ。

 そこに孫立が飛び出した。連環馬に向けて猛然と馬を駆けさせる。正面から逃げてくる秦明を見据え、叫んだ。

「秦明どの、私にひとつ案が」

 孫立が鉄鞭を掲げた。

 秦明がにやりと笑った。

「なるほどな。分かったぞ、孫立」

 秦明が連環馬に向きなおり、孫立と共に駆けた。

 秦明と孫立は左右に別れ、連環馬の両端に向かってそれぞれ駆けた。もう避けられない。目の前に連環馬が迫る。

「矢や刀が通じずとも」

「これなら、どうかな」

 二人が得物を、狼牙棒と鉄鞭を振り下ろした。

 両端の騎兵が甲ごと頭を砕かれ絶命した。だが秦明と孫立は突っ込んでくる連環馬に、そのまま弾かれた。

 しかし飛ばされながらも何とか身をよじり、連環馬の正面ではなく横に落ちる。すぐに転がり、馬の蹄を避けた。

 連環馬はそれでも止まらない。

 だがそれで良かった。孫立の狙いはそこにあった。

 連環馬の正面に湖が見えてきた。

「止まれ、止まるのだ」

 連環馬の中央にいる兵が叫んだ。手綱を引き、馬を止めようとする。

 しかし両端の馬には乗り手がいない。馬はそのまま走り続けた。

 そして、連環馬という名の通り他の馬と鎖で繋がれているため、止まろうとした馬も両端に引っ張られ、止まれない。

 しかも端の兵がいないため、方向転換もできない。連環馬はそのまま湖へと突進するしかなかった。

 激しい水飛沫が上がった。助けてくれ、という声も馬の嘶きも、すぐに泡(あぶく)の音になった。

 重い甲冑が仇となり、連環馬もろともたちまちのうちに水中へと没した。

 擦(す)り傷だらけになった秦明は、悔しそうに立ち上がった。共に戦を経てきた部下たちが大勢散った。生死は戦の常とはいえ、そういうものだと割り切れる秦明ではなかった。

「宋江どのは」

 同じく擦り傷と泥だらけの孫立が駆け寄ってきた。秦明は林冲の方に目をやる。

「襲ってきた連環馬の残りがいない。おそらく宋江どのを追って行ったのだろう。行けるか、二人とも」

「当り前だ」

 それぞれの馬も、幸い軽傷で済んだようだ。

 林冲の愛馬が、ひと際大きく嘶いた。

「一番怒っているのは、こいつかもしれんな」

 五騎が矢のように駆けだした。

 

 間一髪だった。

 呉用から緊急の出撃要請が出され、李俊は船を飛ばした。

 宋江が、李逵と楊林の隊に左右を守られながら駆けていた。追われている。

 宋江の背後に見えたのは、鉄の塊だった。甲で全身を覆った騎兵が、横に三十騎ほど連なり、轟きを上げていた。

「何だあれは」

 櫓を操りながら、阮小二が呻いた。あんなものに襲われてはひとたまりもあるまい。

 阮小五、阮小七がひと足先に接岸し、宋江らを船に乗せた。童威、童猛らと水軍の船も、次々と兵たちを救い出してゆく。

「李逵たちの伏兵に助けられました。あなたにも救われました、李俊」

「軍師どのから急げと言われてね。でも、まだだ」

 連環馬が湖の岸で止まり、弓を構えた。

「楯を構えろ」

 水軍が皮の衣をかぶり、木の楯を出す。矢が放たれた。李俊は宋江を守るようにしながら、耐えた。

 連環馬の後から到着した歩兵が、さらに矢をつがえはじめた。

 李俊は隙を突き、水軍を一斉に梁山泊へ戻した。矢が飛んできたが、水軍には届かず湖に落ちてゆく。遠ざかる敵兵は去りもせず、こちらをじっと見ていた。

 宋江も呼延灼軍をじっと睨むようにしていた。李逵と楊林も無事なようだ。しかし率いていた兵の多くが連環馬の犠牲となった。

 これが戦なのだ。分かってはいても、宋江の胸には釈然としない何かが渦巻いていた。

 鴨嘴灘が見えてきた。

 鴨嘴灘の寨に孫新と顧大嫂、石勇と時遷がいた。それぞれ西山酒店と北山酒店を任されている。呼延灼軍の歩兵たちに店を襲われたが、すんでのところで脱出してきたという。

「まあ、命あっての物種だ。店はいつでも建て直せるさ」

 孫新はそう言っていたが、顧大嫂は悔しさを隠そうともしていなかった。

 ともかく宋江は聚義庁への報告のため、鴨嘴灘の寨を出た。

 突如、雷(いかずち)のような、花火のような音が轟いた。宋江は空を見るが、雲ひとつない晴天だった。

 視線を動かすと、空に何かが見えた。鳥か。

 宋江は何度か目を瞬(しばた)いて、それを確かめようとした。

 黒い物が飛んでいた。

 鴨嘴灘の対岸からこちらに向かって、それは移動しているようだ。

 黒い物体が徐々に近づいてきて、大きくなってゆく。

 宋江は駆けだしていた。

 鴨嘴灘の寨へ向かって、駆けだしていた。

「逃げろ。みんな逃げるのだ」

 駆けながら、宋江は叫んでいた。

 その間にも、黒く丸いものは鴨嘴灘に向かって接近していた。

「逃げろ」

 宋江が叫ぶと同時に、それが鴨嘴灘の寨に落下した。

 鴨嘴灘が轟音と共に大破した。

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