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激突

 宋江は、大破した鴨嘴灘の寨へ戻ると、膝を付いた。

「ああ、なんて事だ」

 宋江の頬に、大粒の涙が流れる。

 寨は粉々に破壊され、灰色の煙が立ち上っていた。だが、がたりと瓦礫が動いた。気付いた宋江が駆ける。

「誰かいるのか。いま助けるぞ」

 渾身の力をこめ、宋江が瓦礫を持ち上げる。少し持ちあがったのだが、宋江の手が震えだした。重い、これまでか。

 そう思った時、四つの手が瓦礫の下に差し込まれた。

「宋江どの、大丈夫ですか」

「へへ、後は俺たちが」

 鴨嘴灘を預かる、鄒淵と鄒潤だった。

「お前たち。無事だったのか」

「悪運は強い方でしてね。いくぞ、潤(じゅん)」

「おおよ」

 鄒淵と鄒潤のかけ声と共に、瓦礫が一気に持ちあがった。その下に寨の守備兵が倒れていた。命に大事はないようだった。すぐに梁山泊の本寨から、救援の兵たちが駆けつけてきた。

 宋江は破壊された寨をまじまじと見た。瓦礫の中に黒く大きな鉄の弾があった。

 これが飛んできたというのか。対岸にいる呼延灼軍が撃ってきたというのか。これで本寨を攻撃されては、ひとたまりもあるまい。

「鄒淵、早くあいつらを」

「とっくに行ってますよ。宋江どのは本寨に戻っていてください」

 見るとすでに船が進発していた。李俊らも無事だったのだ。

 無事だったどころか、もう反撃のために動いていたのだ。阮三兄弟、童兄弟そして張兄弟の操る船が、みるみる対岸へと迫る。

「梁山泊軍が来るぞ」

 凌振が兵たちに指示を飛ばす。兵たちは砲を背にして、守るように立った。

 凌振が砲のひとつに駆けた。置き場から砲弾をひとつ抱え、砲に向かう。

 砲弾は、二人でやっと持てるほどの重さである。しかし凌振は独りで、砲弾を抱えて駆けていた。

 まだ間に合う。砲に辿りつき、砲弾を押しこむ。

 梁山泊の船が接岸した。凌振が松明で導火線に着火した。

 せめてあと一発。自分を選んでくれた呼延灼に報いるために、もう一発。梁山泊に打撃を与えておきたい。

 梁山泊水軍が押し寄せる。凌振は刀を抜き放ち、それを迎え討った。

 凌振は武芸もなかなかの腕だった。なにより砲弾を独りで持ち上げるほどの膂力である。凌振の振るう刀に、さすがの水軍も近づけないでいた。

「なかなかやるな、あんた」

 李俊の目がぎらりと睨ねめつける。闇塩を扱っていた頃の、混江竜の目であった。

 凌振はその目に怯み、思わず後ずさった。背に何か当たった。

 先ほど火をつけた、砲である。

 凌振の目が李俊を睨み返す。李俊が嬉しそうに笑った。

「その目、嫌いじゃないぜ」

 周りで、砲の倒される大きな音がする。

 にじり寄る李俊。もはやこれまでか。

 凌振は一度、砲を振りかえり、唾を飲み込んだ。

 おおお、という咆哮と共に凌振が駆けた。李俊がそれを迎え討つ。刀が弾かれ、李俊の手がびりびりと痺れた。

 そこへ凌振が踏み込み、刀を振るう。李俊は受けようという素振りを見せたが、それを受けなかった。凌振は気合をさらに発し、李俊に襲いかかる。だが李俊は刀を上手く避(よ)けてしまう。

 この男、そこらの軍人より腕が立つ。凌振は思った。自分も軍人とはいえ、通常は甲仗庫詰めである。力にはいささか自信があったが、やはり及ばぬか。ならば。

 凌振は李俊に背を向けると、砲に駆け寄った。

「む。お前、何を」

 がっしりと砲身を掴んで、凌振が吼えた。

 巨大な、黒く重いその砲身が、持ちあがった。ぎりぎりと、凌振は奥歯が砕けそうなほど力を込める。ゆっくりと、その砲身を李俊に向けた。

「嘘だろ、おい」

 李俊を見据えた凌振の目は、これが冗談などではない事をしっかりと語っていた。

 導火線が砲の底に消えた。

 爆音と共に、砲弾が放たれた。

 李俊は叫んだ。しかしその声は轟音にかき消された。

 砲弾は地面と水平に飛び、そのまま湖に突っ込んだ。

 巨大な水柱が上がった。天まで届くのではないかというほどの水柱だった。

 そしてそれは雨となって、辺りに降り注いだ。

 頭から水を浴びながら、凌振は目を凝らした。

 奴はどこだ。砲を撃った瞬間に、飛びのくのが見えた。

 いた。李俊は水軍を手で指示しながら駆けていた。近くで砲の爆発音を聞いたのだ。水軍も李俊も、凌振たちも耳が聞こえていなかった。

 李俊らは船に乗り込み、梁山泊へと退却してゆく。

 凌振も、兵らに手振りで合図をする。奴らを追うのだ、と。

 梁山泊水軍が残した船に、凌振らが飛び乗る。不得手ながらも櫓(ろ)を操り、漕ぎ出してゆく。

 だがやはり梁山泊水軍に追いつく事はできない。

 勢いで飛び出してしまった事を、凌振が少し後悔した時、四方から叫び声が聞こえた。

「凌振どの、船が。水が」

 凌振が足元を見ると、船底に水が溜まっていた。見ると、後方の船底から水が湧きだしているようだ。

 穴だ。船底に穴が開いているのだ。

 錐(きり)などで開けた穴ではない。あらかじめ船に開けられた穴だった。その間にも、周りの兵たちが船ごと沈んでゆく。そこに梁山泊水軍が現れ、兵たちを水中へと引きずりこんでゆく。

 船大工である孟康の作った仕掛けであった。敵に船を奪われた時、または今回のようにわざと使わせて、水軍が船の底にある栓を抜くのである。

 凌振の乗った船も沈み続け、すでに腰まで水の中だった。

 ふと、気配を感じた。横に人が立っていた。船ではない。湖の中に、立っていた。

 いや、そんな馬鹿な。しかしその男は、腰まで水に浸かっているものの、背筋を伸ばし腕を組んで凌振を見据えていた。

 水の中に立つ男、張順は腕組みを解き、腰の刀を抜いた。

「くそっ、ただでやられるものか」

 凌振が叫び、張順に飛びかかった。

 まさか向こうから飛び込んでくるとは。張順は動くのが一瞬遅れ、凌振にがっしりと正面から羽交い絞めにされた。

 動こうにも、凌振の太い腕に張順の腕が挟まれてしまっている。凌振は左手で右の手首をしっかりと握りしめ、張順を締め付けた。

 ぐう、と張順が呻いた。肉が絞られ、骨が軋(きし)む。

 だがすぐに船が完全に没し、二人とも水中に沈んでしまった。凌振はそれでも腕を離さなかった。

 さすがの張順も、身動きができない状態ではどうする事もできない。凌振にしがみつかれたまま、深く沈んでゆく。

 離せ。離さないと、お前も息が持たんぞ。

 離すものか。貴様もろとも魚の餌となってくれるわ。

 息のできぬ水の中で、互いの目がそう語っているのが分かる。

 じゃあ、好きにしな。

 水中に七日七晩潜っていられるという張順だ。張順は呆れたような顔で、微笑んだ。だが、その笑みも長くは続かなかった。

 常人ならば、水軍の手練だとしても、もう限界は超えようという時間だ。しかし凌振の腕は緩むどころか、しっかりと張順を掴み続けている。

 こいつ、本当に俺を道連れに。

 凌振の目はすでに虚ろだった。だが先ほど、目で語った事は本気のようだ。

 張順の表情が引き締った。敵にも、官軍にもこのような男がいるのだ。張順はふと李逵の事を思い出した。

 凌振が大きな泡を口から吐いた。体に残っていた、最後の空気だろう。そして凌振の腕が緩んだ。張順は体を捻って腕から逃れると、凌振の襟元を掴み、水面へと向かった。

「大丈夫か、順」

 兄の張横の船が待っていた。

 凌振を転がすように船に上げ、張順は大きく息を吸い込んだ。

「待ってくれ、兄貴」

 張横が朴刀を構え、凌振の首を狙っていた。

「何故だ、こいつは官軍だぞ。鴨嘴灘をめちゃくちゃにしやがったし、お前も危なかったんだぞ」

「宋江どのの命令だ。戦いは別として、捕虜となったものを無闇に殺してはならんと、な」

 張横は恨めしそうな目で凌振を見下ろしていた。二人のやり取りを知ってか知らずか、凌振は白目を剥いて、大きな体を船底に横たえていた。

 張順が凌振の厚い胸を両手で押す。何度か押すと、凌振が咳とともに水を吐き出し、気を取り戻した。

「仕方ない。せめて縄を」

 張順が頷き、張横は縄を取り出した。

 阮小五と阮小七が手を振っていた。あらかた片付いたようだ。

 水軍が鴨嘴灘に近づいてきた。その到着を見て、宋江が嬉しそうに手を振った。

 張順はまだ朦朧としている凌振を見た。

 宋江の命令がなくても、凌振の命を奪う事はしなかっただろう、と思った。

 

 北の戦場にて、呼延灼軍の連環馬隊を撃破。

 戴宗の報告に、晁蓋が立ち上がった。横にいた呉用も、少しだけ安堵したように見えた。

「おお、見事にやりおったか」

「そのようですね。そのまま西の戦場へ向かうように伝えてください。残りの連環馬も、討つのです」

 戴宗がにやりと笑い、聚義庁から駆け去った。

 晁蓋が、どかりと床几に腰を下ろし、汗を拭う仕草をした。

「間に合って、良かった」

 晁蓋が言い、呉用もこくりと頷いた。

 間に合った。ぎりぎりの賭けのようなものだったが、間に合った。

 呉用はいつものように顔には出さなかったが、内心でほっと胸をなでおろしていた。

 北の戦場に戴宗が戻った。

 連環馬と兵がそこかしこに倒れており、その中に梁山泊軍がまとまっていた。

 その梁山泊兵たちは奇妙な槍を手にしていた。槍の穂先に鎌のようなものが付いている。

 戴宗が、その中央に立っている鋭い目をした男の元へ歩いてゆく。

「連環馬がまだ残っています。もう少しだけ、その腕を振るっていただきたい、徐寧どの」

「分かった」

 徐寧と呼ばれた男は短くそう言うと兵たちを率い、西へと向かった。

 残された戴宗は、地に累々と折り重なる連環馬の骸を見て、ぞくりと体を震わせた。

 

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