108 outlaws
蛮勇
二
梁山泊の修練場の一角に、燕青と焦挺が向かい合っていた。
焦挺は腰を低めに落とし、両の手を広げた構えを取っている。一方の燕青は、手刀を作り、足を前後に置いた構えだ。
やや離れたところで宋江と盧俊義がそれを見ていた。
焦挺の足が、じりっと動いた。
来る。そう思った時、すでに燕青が、焦挺の懐へ飛び込んでいた。
燕青が、肘を思い切り打ち込んだ。呻き声をあげ、没面目が微かに歪んだ。
しかし焦挺の左手は、しっかりと燕青の上着を掴んでいた。焦挺が腕を動かすと、燕青の体が逆さまになった。
修練場の石畳に、燕青の体が叩きつけられる。今度、嗚咽を漏らしたのは燕青だった。
素早く跳ね起き、再び両者が向かい合う。
あれは、と宋江が目を見開いた。
「わしが教えたのは拳法の基礎だけだ。そこから小乙は独自に研鑽を積み、わしなどあっという間に追い越したのだ」
盧俊義が懐かしむような目で言う。
「そのひとつが、あれだ」
燕青が前に出た。射程に入った燕青に、焦挺が突風の如き掌打を放った。
燕青は、大きな掌をくるりとかわした。そのまま足を目まぐるしく動かし、焦挺の周囲を駆け巡る。
焦挺は燕青を捕らえようと、何度も手を伸ばすが、次の瞬間には別の場所にいるのだ。
まるで小燕子だ。
盧俊義は目を細めた。だが小燕子より、速度も技も上だった。
燕青が編み出した歩法に、その神髄があった。次の動きが予測不能なその歩法は、余人が真似できるものではない。燕青の類まれな体幹と、持久力があって初めてなし得るのだ。
燕青の体躯は、焦挺などと比べると小さい。燕青自身それを承知しており、だからこそそれを補うために身につけた技術だった。
ひゅっと息を吐き、燕青が矢のように飛び込んだ。
先ほどよりも深く、肘が焦挺の鳩尾に突き刺さった。
大きな体を折り曲げるように、焦挺の膝が崩れた。
すかさず燕青が後ろに飛び退る。しかし燕青の退路を断つように、焦挺の腕があった。
焦挺が覆いかぶさるように、倒れこむ。燕青は逃げることができずに、そのまま押しつぶされた。
宋江と盧俊義が駆け寄る。
焦挺の巨体を、二人で何とか反転させた。
「まだまだですね」
大の字になって、燕青が笑った。
むくりと焦挺が上体を起こした。
「手加減したな」
「してないさ。お前が強かったんだ」
焦挺はいつもの無表情で、燕青を見つめる。
おおい、と呼ぶ声がした。鮑旭と李逵が見えた。
「焦挺、飲みに行こうぜ」
片手を上げ、焦挺がそれに応えた。
「じゃあ、また」
ぼそりと言い、焦挺が去っていった。
枯樹山で出会っているこの三人は、何かと気が合うらしい。
「では、我々も飲むとしますか」
宋江が手を叩いて、提案した。
そこで燕青は、目が無意識に、焦挺ら三人の姿を追っていた事に気付いた。
「私もよいのですか」
「もちろんだ、小乙」
立ち上がり、服の埃を払った。
西の空が赤く染まっていた。
来たる三月二十日、泰山にて天斉聖帝の生誕祭が執り行われる。
そこで様々な武芸の奉納試合が開催される。その中で、争交の部に出る、擎天柱の任原という男がいた。
天を支える柱とは大きく出たものだが、背は一丈もあり、ここ二年の試合では負けなしであるという。また任原も、自分より強い者はいないと豪語しているのだという。
この奉納試合に出場したい、と燕青が言った。
盧俊義は驚いたが、同時に嬉しくもあった。これまで燕青が、自らの望みを言ったことがあっただろうか。
盧俊義に否やはなかった。宋江が興味深そうに身を乗り出す。
「擎天柱だと。郁保四なみの人間が他にもいるとは。勝てる見込みはあるのか」
「勝てるかはやってみないと分かりません。ただやるからには勝ってみせます」
「頼もしいな。私も見物に行きたいが」
と呉用の方を見て、宋江がうなだれた。やはり呉用は無言で、駄目だと言っていた。
あっという間に、その日が近づいた。
単身旅立つ燕青を、焦挺が見送りにきた。ずっと練習に協力してくれたのだ。
「擎天柱は強いらしい。だが、好きではない。勝ってくれ」
「ありがとう。朗報を土産に帰るよ」
片手を上げ、山を下りる燕青。梁山湖を渡り、泰山へ向かおうとした時、声をかけられた。それは李逵だった。
「あんたには荊門鎮で世話になった。ひとりで行くって聞いたから、力を貸そうと思ってな」
燕青が笑みを浮かべた。
「なにか可笑しいのか」
「いや、すまん。嬉しいのさ。ありがとう」
かくして燕青と李逵は泰山へ向け、出発した。
「ところで泰山へ何をしに行くか知っているのか」
いや知らん、と李逵が真面目な顔で言った。
焦挺と鮑旭が、勝てる勝てないなどと話しているのを聞いただけだという。それで、戦いだと思い、来たという訳だった。
「まあ、戦いには違いないか」
「なんだよ、教えてくれよ」
「すぐ分かるさ。まあのんびり行こう」
燕青が背負い袋の中から、酒の入った筒を取りだした。
そうこなくっちゃ、と李逵が手を叩いた。
開封府もかくやというほどの賑わいだった。千五百もあるという宿さえ、人を納めきれずにいた。
燕青と李逵は泰山の外れの安宿に部屋を借りた。試合は明日。李逵を残し、燕青は下見に出かけることにした。
参詣客に聞くとすぐに居所が知れた。なるほど有名人というわけだ。
橋のたもとの大きな宿屋に、任原はいた。そこにも見物客がおり、どうやら弟子たちの稽古を見ているところらしい。
任原の顔は金剛力士の如く、はだけた胸は張り詰めた毬のように盛り上がっている。二年間無敗というのは、嘘ではなさそうだ。
見物人がどよめいた。任原が舞台に上がり、自ら稽古をつけようというのだ。燕青も、良く見ようと人の頭の隙間を探す。
まず弟子たちが一人ずつ、任原に討ちかかってゆく。だが肌に触れることさえできずに、次々に転がされてしまう。
「二、三人まとめて来い」
任原の野太い声が響いた。何気ないひと言だ。しかし燕青は、任原の胆力をはっきりと感じた。
稽古をするうちに任原も熱が入ったのだろうか。自分から攻めることが多くなった。掌打、蹴り、組み投げどれも恐ろしいほどのものだった。しかもどれも本当の力を出してはいないのだ。
また一人、弟子が転がされた。すでに勝負はついていた。だが追い打ちをかけるように、倒れている弟子を思い切り足蹴にしたのだ。
「酷いことをする」
魅入っていた燕青が、思わず声を出した。燕青の声に付き人たちが気付き、任原も振り向いた。
「誰だ、今のは」
まずいと悟り、燕青はその場を脱兎のごとく飛び出した。
あいつです。と後ろから声が聞こえる。ここで捕まっては、明日の試合どころではない。
燕青は擎天柱、任原などと書かれた幟を倒しながら逃げた。待て、という声が、徐々に遠くなってゆく。
焦挺が言っていたのは、あのことだろう。どうやら強いのは確かだが、人間ができていないようだ。燕青も、任原に対してふつふつと怒りが込み上げてきた。
宿では留守番をしていた李逵が、酒を飲んでいた。
「おや、擎天柱とやらはどんな奴だった。明日は勝てそうかね」
燕青はにこりとして、空の杯を差しだした。李逵がそれに酒を注いでやる。
「ああ、もちろんだ。楽しみにしていてくれ」
そうこなくっちゃ、と李逵も杯を上げ、共に飲み干した。
明らかに不機嫌そうな顔で、任原が座していた。
弟子たちや世話人たちがなだめすかし、やっと舞台に上がった。
そして奉納試合の開始が宣言される。観客の喚声が大きくなる。
「さあ、二年連続で勝ちを収めてきたこの任原どの。この擎天柱を倒さんとする、命知らずはおらんかね」
世話人が対戦相手を募るが、名乗りでる者はいない。それはそうだろう。目の前にいる山のような男と、賞金が破格とはいえ、戦おうなどという者はいなかった。
「ここにいるぞ」
すっと手が上がった。見物客を縫うように、若い男が前に出てきた。
それを見た弟子のひとりが、任原に伝えた。昨日、稽古場から逃げていった男だと。
不機嫌そうだった任原が、不吉な笑みを浮かべた。
対戦者を募っておいて、世話人は若者を止めた。どうみても若者の体格では、任原に勝てる見込みがないと思ったのだ。
「良いではないか。何も命まで奪おうって訳じゃあない。これは試合なのだ」
先ほどと打って変わって、笑みを浮かべた任原が、世話人にそう促した。
世話人は、責任は取らないぞと若者に告げ、舞台に上げさせた。
「大した度胸だな。名だけでも聞いておこうか」
低く、任原が言う。
それに臆することなくその若者、燕青も笑みを浮かべていた。
「張という。どうぞお手柔らかに」
「ふん、張だと。まあいい、お前が何者だろうと関係はない。二度と、立ち上がれぬようになるのだからな」
「怖いこと言わないでくださいよ」
燕青の軽口に、任原が唾を吐く。
燕青と任原が舞台の中央でにらみ合う。燕青は見上げ、任原が見下ろす形だ。
しかし燕青の笑みは消えなかった。
確かに大きい。腕も丸太のようだし、胴体も熊のようだ。
しかし、郁保四ほどではなかった。あの男の方が、やはり遥かに見上げるほどでかい。
そして背の高さを別にすれば、焦挺と同じような体格だ。
燕青は、ふと盧俊義を思い出した。これまで育ててくれた恩がある。決してわがままを言わないようにしてきた。だから、これが初めてのわがままだった。
梁山泊に入って、周囲に影響されたのかもしれない。どの顔ぶれも、ひと癖もふた癖もある連中ばかりなのだ。そして当然のように首をもたげる疑問がある。
自分はどのくらい強いのだろうか。
燕青はまだまだ若い。そう言う思いが出て当然だった。
だから一度だけ、たった一度だけのつもりで、私闘を願い出たのだ。
燕青と任原、両者が舞台の端に一度、下がる。燕青の足元から、李逵の声がした。
「おい、えらいのが相手じゃないか。本当に大丈夫なのか」
珍しく李逵が心配をしてくれているようだ。
「ありがとう。何とかなるさ。何かあったら頼むよ、鉄牛」
「おう、安心して闘ってこい」
どん、と李逵が胸を叩いた。
燕青が中央に向かう。任原はさながら仁王のように、両腕を広げた構えを見せた。
会場が水を打ったように静まり返る。
あの若者、可哀想に。命がないぞ。などという声にも、燕青は動じなかった。
ついにはじめの合図がかかった。
足を擦り、じりじりと任原がにじり寄る。燕青もすぐに打ちかからずに、構えを取る。
任原は、燕青の視線を見ていた。どうやら足元を狙っているようだ。小賢しい真似を。
ならば、と任原が隙を作って見せた。そこへ燕青が飛び込んだ。かかったな、馬鹿め。燕青を捕らえようと腕を伸ばすが、想像以上の素早さだった。燕青はするりと脇の下をすり抜け、両者の位置が入れ替わった。
任原は焦りを見せず、ゆっくりと鷹揚に振り返る。
燕青はまたも待ちの構えだ。今度は任原が一気に攻めた。だがまたしても、脇の下を潜り抜けられてしまう。勢いのついた任原は、燕青を逃したたらを踏んでしまった。
「ええい、ちょこまかと小うるさい鼠め」
任原の顔が赤くなった。燕青に襲いかかる任原。捕まえることさえできれば、と燕青を追いまわすが、その手は空を切るばかりだ。
燕青の足さばきが、目で追えないほどに速くなってゆく。任原の拳も、蹴りも燕青には届かない。
しかし二年間無敗である任原も並ではなかった。ふっ、と息を細く吐くと、両の手を大きく広げた。舞台が半分ほども、任原の大きな体に占められてしまった。そのままゆっくりと燕青に近づいてゆく。
徐々に追い詰められる燕青。しかし燕青が飛び込んだ。任原の左脇の下を目がけ、駆ける。だが任原はそれに反応する。左手を下げ、燕青を捕らえようとする。
だが、その手は空を切った。
任原が気付いた時、燕青は右脇の下を潜りぬけていたのだ。任原はすかさず右の裏拳を放つが、それも避けられてしまう。
勢いで体が反転した。片足も浮いてしまい、体勢が崩れた。
目の前の燕青と目が合った。まずい、と任原は思った。
はっしと、燕青が右手首を掴んだ。体を沈め、左腕を任原の股に差し込む。そして、そのまま肩で支えるように、任原を持ち上げてしまった。
観衆が割れんばかりの喝采を送る。任原の半分にも満たないような若者が、擎天柱と呼ばれる任原を持ち上げてしまったのだ。
燕青は止まることなく、任原を抱えたままぐるぐると回転した。そして舞台の端へ向かう。
「やめろっ」
叫ぶ任原だったが、燕青は止まらず、舞台から真っ逆さまに落としてしまった。
首から落ちた任原は受け身を取り損ね、白目を剥いてぴくぴくと痙攣していた。
一瞬の静寂の後、燕青が勝ち名乗りを受ける。
そして今日一番の喝采が上がった。舞台下の李逵も手を叩いて喜んでいる。燕青が手を上げて、それに応えた。
「ふざけるんじゃねぇ」
「生きて帰れると思うなよ」
喝采を遮るように、怒号が響き渡った。そして、任原の弟子たちが舞台上へと、一斉に押し寄せた。
奉納試合の場が、修羅場と化す。
咄嗟に構え、迎え討とうとする燕青。しかし襲いかかってきた弟子のひとりが、突然消えた。その弟子は宙を舞い、舞台下へと投げ落とされていた。
舞台上に、焦挺が立っていた。
「さすがだな、焦挺」
焦挺は無言で頷くと、襲いくる弟子たちに向かって駆けた。燕青もそれに続く。
燕青と焦挺、ふたりが次々に任原の弟子たちを放り投げてゆく。
「逃げるぞ」
焦挺が燕青を促す。確かに切りがない。
二人は舞台を飛び降り、駆けた。だが少ししたところで、燕青の脚がふらついた。任原との試合の影響だろう。
焦挺に、先に逃げろと叫ぶ。そこへ弟子のひとりが、朴刀を携えてきた。
「惜しかったな」
言葉と同時に、刀が振り下ろされた。だが燕青を斬りつける前に、刀ごと弟子が吹っ飛んだ。
「よく戦ったな、小乙。さあ、帰ろう」
「旦那さま」
玉麒麟の盧俊義が、棍を構え微笑んでいた。