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神箭

 花栄の妻、崔氏(さいし)と挨拶をした。

 花栄の妹とも五年前、花栄の父の葬儀で顔を合わせて以来である。あの頃、幼かった少女も既に十八。花小妹(かしょうまい)も美しい女性になっていた。

 まだ小さい花栄の息子は親類の家に預けているという。会えなくて残念だが、仕方あるまい。

 改めて再会を祝し、杯を合わせる宋江と花栄。

「すっかり知寨が板に付いているようじゃないか」

 宋江のからかうような言葉に花栄は、

「そんな事はない、それに、副だ」

 と少し憤っているような顔をした。

 花栄が一気に杯を呷った。

「どうしたお前らしくもない。立派な役職ではないか」

 そう言う宋江に花栄が、まあ飲めと酒を注いだ。

 花栄は清風寨の副知寨である。正知寨は文官の劉高(りゅうこう)という男だという。

 花栄によれば、その劉高は最近赴任してきたのだが、文官にも関わらず学問もからきしで、権力を笠にやりたい放題だというのだ。

 今は武人よりも、科挙を通過した文官の地位がなにかと上に見られる世である。

 酒が入り、気心の知れた宋江が相手だから愚痴が出たのだろう。

 宋江はなだめるように言った。

「なるほど、ここはお前の腕があるからこそ守られているのだな。その劉高も、お前がいるから安心しきっているのさ」

 そう言って花栄に酌をする。

「ありがとう、宋江。お前の方こそ、大変な目にあったというのにな」

 花栄はにっこりと笑い、宋江も杯を上げると微笑みを返した。

 

 花栄の武芸の腕はもちろん一流で、特に弓術に関してはこの広い国土でも一番なのではないかと、お世辞抜きにして宋江はそう思っていた。

 小李広(しょうりこう)。

 前漢時代の将軍で弓の名手である李広になぞらえて、花栄はそう呼ばれていた。

 弓の腕が上達した背景には、花栄の父がいたことも大きく関係したのだろう。花栄の父は青州で武官を務めており、彼もまた弓の名人として名を馳せていたのだ。

 実は宋江の父と花栄の父が、どういう繋がりなのか親友だったらしい。そこで勉学のために、と幼い宋江を青州へと預ける事にした。そして共に学んだのが花栄だったのだ。

 花栄の父は、宋江を己の息子のように分け隔てなく愛し、また厳しくもした。

 学問は宋江の方が上で、武芸は花栄の方が得意であった。

 二人は本当の兄弟のように互いを高め合いながら充実した日々を過ごしていた。

 その日の課題を終え、二人は山へ遊びに出かけた。

 青州城から少し離れた小さな山であったが、幼い二人にとっては壮大な冒険の舞台であった。

「兎を捕って、父さんへのお土産にしようぜ」

 という花栄の一言がきっかけだった。

 宋江は落ちている棒きれを手にし、花栄は枝を細く削り、手製の弓矢をこしらえた。

「すごいな、花栄。でもそんなので兎が捕れるのかい」

 宋江は感心して言ったのだが、花栄は少しむっとしたようだ。

「やってみなきゃ、わからないさ。宋江、お前はその棒で兎を追いたててくれ。出てきたところを俺が射てみせるよ」

 わかった、と宋江が茂みの中へと消えた。

 父が弓を射てきた様子は何度も見ている。矢をつがえ、じっと待つ花栄。

 弓の名人である父の血をしっかりと引いていた。見よう見まねながら、その構えは下手な兵士よりも様になっていたのだ。

 遅いな、と様子を見に行こうと思った時だ。宋江が消えた方角が騒がしくなった。

 来たか、と茂みの少し手前を狙う花栄。

「逃げろ、花栄」

 叫びと共に宋江が飛び出してきた。棒も手にしていなかった。

 なんだ、兎はどこだ。狙いをつけたままの花栄は、茂みから黒い塊(かたまり)が飛び出してくるのを見た。

 それは巨大な猪であった。

 あっ、と叫び宋江が転んでしまった。猪は速度を落とすことなく突進する。

「宋江」

 叫んだ花栄が矢を放った。それは猪の目の前の地面に突き刺さり、猪は走る方向を変えた。

「逃げろ宋江。こっちだ猪、こっちに来い」

 猪の注意を自分に向ける花栄。

 手製の矢をつがえる。矢は二本しか作っていなかった。

 猪の正面に立ち、弓を引き絞る。

「花栄、よけろ」

 宋江が尻もちをついたまま叫ぶ。

 猪との距離があっという間に縮まる。

 早く。叫ぶ宋江。

 まだだ。花栄は動かない。心臓が早鐘のように鳴っている。

 猪が花栄を睨んでいる。

 ここだ。花栄は息を吐くと同時に矢を放った。

 ずん、と矢は猪の右目に当たった。

 ぶぎぃ、と猪は吠えたが突進をやめなかった。もう矢はない。

 万事休す。花栄は目を閉じた。

 だが猪は花栄のわずか脇をかすめて、どこかへ走り去ってしまった。

「花栄、無事か」

 宋江の叫びで目を開けた花栄。

 どっと汗が全身から噴き出した。鼓動はまだ早いままだ。起き上がった宋江が駆けてくる。

「無事か、花栄」

 緊張の糸が切れた花栄は、へなへなと膝を地に付けた。

「はは、でかい兎だったな」

 宋江と花栄は抱き合い、無事を喜び合った。

 しばらく山で休み、それから城内へと帰った。日はとっくに暮れており、二人ともなんと言い訳をしようかびくびくしながら家へと戻った。

「二人とも、こんな時間まで何をしていた」

 案の定、叱られた。

 言い訳しようにも、兎は獲れていないのだ。宋江と花栄はただ黙って下を向いていた。

「二人とも反省したようだな。こんな時間だ、飯にしよう」

 一転、がっくりと肩を落とした二人に花栄の父が微笑んだ。

 そして、ついてこいと言うと食卓ではなく、中庭へと向かってゆく。花栄の父の後ろで顔を見合わせる二人。

 あっ、と花栄と宋江が声を上げた。

 中庭に横たわっていたのは巨大な猪だった。右目には枝でできた矢が刺さっていた。山中で花栄が射たものに間違いなかった。

 そして額にも一本の矢があった。それは羽の部分まで深々と刺さっていた。

 説明を求めるように顔を見た花栄に父が話しだした。

 昼過ぎぐらいに城外で猪が暴れまわっているという報告を受けた。駆けつけると、猪は口から泡を飛ばしながら人々を追いたてていた。

 そこで花栄の父は矢を放った。

 たったの一矢である。それは狙い違(たが)わず額に突き刺さり、猪を仕留めた。

 幸い怪我人もなく、人々は花栄の父に喝采を送った。

 褒美として下賜(かし)された猪を運んでくると、おかしな事に気づいた。右目に矢のようなものが刺さっていたのだ。

 息子の仕業だ、と直感した。

「二人とも危ないところだったな。今日は猪(しし)鍋だ」

 わあ、と手を取り合い喜ぶ宋江と花栄。

 その後、すぐに宋江は鄆城へ戻ることになる。

 しかしその時、花栄の父が見せた優しく誇らしげな顔は、いつまでも記憶に刻まれたままだった。

 

 

 

 

 

 

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