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逆鱗

 朱仝は滄州への流罪と決められた。

 そして滄州知府はひと目で朱仝を気に入った。おかげで朱仝は牢にも入れられずに、知府の身の回りの世話をする事になった。これもひとえに朱仝の人柄のおかげだと言えよう。

「おひげのおじちゃん、遊んでよう」

 知府宅に呼ばれた時である。四歳になる知府の息子が、朱仝の事を気に入ったらしい。すっかり懐いてしまった息子の世話も、知府は朱仝に頼むようになった。もともと子供好きでもある朱仝も嬉しかったようだ。

 普段は知府の側で職務をこなし、時間が空けば、坊ちゃんを連れて街を歩いた。かくして朱仝は知府からも周囲の者たちからも、流罪人であるにもかかわらず、全幅の信頼を寄せられるまでになっていた。

 ある日の夜、朱仝は用事を終え、一件の居酒屋へと入った。明るい笑顔の主人と女将の挨拶が心地よかった。

 朱仝はまず酒を飲み、飯と菜を頼んだ。美味かった。特に派手な味付けではないのだが、飽きが来ない、深い味のような気がした。

 女将(おかみ)が吸い物を持ってきた。頼んでいないと言うと、主人からだという。

「美味い」

 思わず声が出てしまった。

「ありがとうございます、私は李小二と申します。お客さま、失礼ですがお名前は」

 主人が奥から出てきてそう言った。朱仝が名乗ると、李小二はますます嬉しそうな顔になった。

「やっぱりそうだと思いました。この店でも朱仝さまのお噂は耐えた事がありませんでした。そこで、ぜひうちの看板を味わっていただきたいと思い、差し出がましい真似をいたしました」

「いや、ご主人。本当に美味い吸い物だった。もちろん他の物も充分に美味かった。ご主人の好意がなければ、あやうくこの吸い物を知らずに過ごすところでした」

 朱仝さまも口が上手い、そう言って二人は笑いあった。

 聞くと、李小二はこの横海郡に住む柴進とも縁があり、たまに屋敷に料理を届けているのだという。

「柴進どのといえば大周皇帝の末裔。そのお方に目をかけられるとは、やはりご主人の腕は本物という事ですな」

「ご主人はおやめください、小二と」

 朱仝がにっこりと笑った。話は続く。

 柴進と縁ができたのは、林冲という男と知り合いだったからだという。

 林冲の名は朱仝も知っていた。禁軍教頭をしていたが太尉の高俅の命を狙ったため、この滄州に流されてきたと聞いていた。そしてある冬の日、秣(まぐさ)置き場に火を放ち、牢番を殺して脱走した。それが約三年前の事である。林冲の行方は杳(よう)として知れなかったが、梁山泊にいる事が分かった。

 梁山泊か。朱仝は晁蓋そして宋江の事を思い浮かべた。朱仝は晁蓋を逃し、梁山泊へ行けと勧めた。宋江も梁山泊で健勝にしていると、雷横から聞かされていた。

 梁山泊か。朱仝は、知らずに呟いていた。

「いまは別荘の方においでのようですが、柴進さまのところへもぜひお寄りください。朱仝どのほどの好漢ならば、諸手をあげて歓迎してくれましょう」

「そうだな。歓迎されるかどうかは別として、一度はお会いしてみたいお方ではあるな」

 その後、四方山(よもやま)話をして店を出た。

 帰り路、朱仝はふいに振り向いた。何か、視線のようなものを感じたのだ。往来に人はなかったが、確かに感じた気がしたのだ。

 通りの先に犬が見えた。こちらをじっと見ていたが、飽きたようにどこかへ行ってしまった。

 ふう、と朱仝が気を緩めた。気のせいか。

 小二の店へ、明日にもまた寄るのだろうな、と歩きはじめた朱仝は思った。

 

 やはり気のせいではないのだろうか。

 その後も、何度か気配のようなものを感じるのだ。それは外でも、役所でも知府の屋敷でも、だ。

 朱仝は、思い切ってその事を知府に打ち明けた。杞憂ならばそれで良いし、何かあってからでは遅いのだ。

 知府は朱仝の言葉を信じた。警備の者、とくに屋敷周辺を増やす事にした。

 坊ちゃんはすっかり機嫌を損ねて駄々をこねていた。夜はもちろん、昼の間も外にはなかなか出してもらえなくなったからだ。外出できたとしても、ものものしい護衛が常におり、せっかく朱仝と一緒なのに楽しくないのだ。知府も困り顔で朱仝と一緒に、もう少しだけの辛抱だから、と機嫌を取るのに必死だった。

 やがて七月の半ば、盂蘭盆の祭りの季節がやってきた。

 通りには提灯が飾られ、出店も多く立ち並ぶ。そして例年通り燈篭流しが催されるのだ。

「いきたい、いきたい、いきたい。おまつりにいきたい、いきたい、いきたい」

 知府は深いため息をついた。祭りには行かせてやりたいが朱仝の言う、何か、がまだ心配なのだ。しかも燈篭流しは遅い時間なのである。

 しかし泣きじゃくり床を転げまわる我が子を見て、知府もついに折れた。

「仕方ない、今日だけは特別だぞ。朱仝、息子を頼む」

 朱仝は神妙な面持ちで頷いた。護衛の者もつけた、何か起きても自分が側にいれば大丈夫だろう。途端に泣きやんで飛びついてくる坊ちゃんを、朱仝は愛(いと)おしく思った。

 朱仝は坊ちゃんを肩に乗せ、地蔵寺(じぞうじ)に向かった。坊ちゃんは途中で買った飴を嬉しそうに舐めながら、目を輝かせていた。寺をひと回りし、施餓鬼堂の放生池(ほうじょういけ)のほとりで燈篭流しを見物した。坊ちゃんは朱仝に支えられながら欄干にのぼって、はしゃいでいる。

 坊っちゃんの袖を掴む朱仝の手がぴくりと動いた。

 背後に何者かの気配がする。だがそれは先日から感じていたものとは違うようだ。

 護衛の者は気付いていないようだ。朱仝はいつでも対応できるように少し半身(はんみ)になった。

 視線に入ったその姿に、朱仝は驚きの声を上げそうになった。

「お袋も俺も無事に逃げられたよ。ありがとう、朱仝」

 朱仝には、はっきりとわかった。

 笠を深めにかぶってはいたが、それは確かに雷横だった。

 少し人気(ひとけ)のない場所で、二人は改めて向かい合った。坊っちゃんは護衛に預けることにした。

 雷横はどことなく暗い面持ちだった。

 それは朱仝も同じだった。再会を果たしたとはいえ、雷横は逃亡中の身である。おいそれと姿を現す訳にはいかない。このような祭りの場ではなおさらだ。

 しかし理由はそれだけではないようだった。

「俺とお袋は梁山泊へと逃げた。晁蓋どのや宋江どのを頼る事にしたのだ」

 朱仝も雷横の行く先を知れて安心した。だがもう一つの心配があった。坊ちゃんの事が気になるのだ。

「なるほど。しかし、今日はどうしたのだ。ただ会いに来たという訳ではあるまい」

 雷横と話をしたいのは山々なのだが、どうしても急(せ)かすような話し方になってしまう。

「実はお伝えしたい事があるのです」

 雷横の後ろに男が立っていた。

「もしかして、呉用先生ですか」

 こくり、と呉用が頷いた。東渓村での見慣れた服装とは違っていたので、一瞬分からなかった。呉用も梁山泊にいると聞いていたが、ここに何の用だろうか。

 呉用は他にも二人ほど一緒に来ているが、彼らは別行動中だという。そして声を低くして言った。

「最近、おかしな事はありませんでしたか」

 朱仝が眉をしかめる。

「確かに、おかしな気配を感じていました。呉用先生は、それが何かご存じだと」

「そうです。その気配は、実は」

「きゃああ」 

 呉用の言葉を遮るように、悲鳴が聞こえた。朱仝は、咄嗟に坊っちゃんの事を思い浮かべた。嫌な予感がする。朱仝は、険しい表情で駆け戻った。

 人だかりができていた。坊ちゃんがいた橋のあたりである。

 これは、と朱仝の顔がさらに険しくなる。雷横と呉用も追いついた。姿を隠していたかったが、それどころではないようだ。

 護衛の者が倒れていた。朱仝と雷横が近づき、護衛の体を見た。首と胸のあたりから血が流れている。すでに息をしてはいなかった。

「こいつは、素人の腕じゃねぇな」

 雷横が言い、朱仝が立ち上がる。

 坊っちゃんがいない。

 いない、どこだ。まさか坊ちゃんも。浮かんだ最悪の考えを否定し、必死に目を凝らす朱仝。

「坊っちゃん、どこです。坊ちゃん」

 人波をかき分け、通りすがる人々が何事かと朱仝を見やる。小さな子どもの後ろ姿を追うが、そのたびに人違いであった。

 あれを、と呉用が指をさした。

 城外の方へ何者かが駆けて行くのが見えた。何か脇に抱えていたようだ。

 まさか、と朱仝の顔が青ざめる。

 朱仝が駆けだしていた。

「朱仝」

 雷横が叫ぶが、すでにその声は聞こえてはいなかった。

 朱仝は何者かの後を追い、城外へと出た。

 どこへ行った。闇夜に目を細めると、先にある林が揺れていた。

 あそこか。朴刀を持つ朱仝の手に力が入る。朱仝も林へと入った。

 茂る木が視界を遮る。しかも夜である。朱仝は必死に目を細め、闇を見つめた。

 前方で、がさがさと大きな音がした。なにやら人の声も聞こえる。

 息を切らし、駆け寄る朱仝。枝が服を引き裂き、顔に傷をつけるが、そんな事に気を割(さ)いている場合ではない。

 いる。追っている相手はそこにいる。

 左手で思い切り、邪魔な枝を振り払うと少し開けた場所に出た。

 地面に小さな子どもが寝ていた。

「坊ちゃん」

 間違いない。今日着ていた服だ。なぜ、寝ている。

 坊っちゃんの頭のあたりに、凶悪そうな男が立っていた。

 李逵だった。李逵の両手には斧が握られていた。その斧から血が滴っているのが、暗闇でもはっきりと見えた。

 そして地面に寝て、いや倒れている坊っちゃんの額からは、赤い血が流れている。

 朱仝の体が小刻みに震えた。

「貴様、坊ちゃんになにをした。そこを動くな」

 朱仝はそう叫ぶと朴刀を李逵に向けた。

 朱仝は自分の顔が熱くなるのが分かった。

 李逵が林の中を駆けていた。

 朱仝がそれに追いすがるように駆けていた。手にした朴刀が時おり、射しこむ月の光できらきらと輝いていた。

「何だってんだよ、お前は。追っかけてくるんじゃねぇ」

「どうしてだと。貴様は何をしたのか分かっているのか。こっちを向け。貴様のような奴でも、後ろから斬るなど卑怯な真似はせん。こっちを向けい」

「面倒くせぇなあ。そんなに言うなら、相手してやるよ」

 李逵が振り向きざまに斧を横薙ぎにする。朱仝は頭を下げてそれを避けると、朴刀を下段から振り上げた。李逵の着物がうっすらと裂けた。

「手前ぇ、このひげ野郎」

 今度は反対側の斧を朱仝めがけて振り下ろすが、それも避けられてしまう。朱仝の朴刀が唸りを上げる。朴刀が月の光で、また輝いた。

「貴様は許さんぞ、覚悟しろ」

「だから、おいらは」

 李逵が何か言おうとしたが、朱仝の鋭い斬撃がそれを許さなかった。さらに朱仝が猛り、朴刀の勢いを増した。

 ちっ、と舌打ちをし、李逵は朱仝に背を向けると。再び走り出した。

「貴様」

 待て、という朱仝の声が何度もしたが、李逵はひたすら駆けた。

 林を抜け、すこし息苦しくなったころ、大きな屋敷が見えた。一目散に李逵はそこに向かって行った。

 朱仝が追いつくと、李逵はその屋敷の正門をくぐるところであった。

「袋の鼠だ。逃がさぬ」

 朱仝は止める門番を払い除けると、屋敷へと駆けこんだ。朱仝を知る者が見たならば、目を疑う光景だっただろう。平時はおろか任務のときでさえ、このような乱暴をはたらく事はないのだ。それだけ、いまの朱仝は怒りに捕らわれていたのだろう。

「いたな、もう逃げ場はないぞ。覚悟しろ悪党」

 廊下の突き当りに李逵がいた。早足で距離をつめる朱仝。

 だが二人の間に何者かが割り込んできた。

「やめなさい、朱仝どの。この屋敷で狼藉をはたらかせる訳にはいきません」

 高価そうな着物を着た、三十半ばほどの男だった。この屋敷の主だろうか。

「わしをご存じのようだが、今はそれどころではないのです。申し訳ありません、その男と決着をつけさせていただきたい」

 睨むでもなく、じっと朱仝の目を見据える男。朱仝は、この男が纏う何かに、ほんの少しだけ気圧された気がした。

「朱仝、やめるんだ。その人は柴進どのだ。この屋敷は柴進どのの屋敷なのだ。頼むから、刀を置いてくれ。そいつは、李逵は」

 雷横の声がした。その後から呉用も現れた。

 目の前にいるのが、大周皇帝の末裔である柴進だったのか。確かに高貴な雰囲気をまとっていると朱仝は思った。

「だが、ここが柴進どのの屋敷でも、いかにお前の頼みであっても、こればかりは聞く訳にはいかん」

「だから、どうしておいらを追い回すんだよ」

「うるさい。自分の胸に聞いてみろ」

 朱仝が李逵に向かって駆けた。その前にいる柴進を回りこむように李逵を狙った。

 その時、李逵をとらえていた朱仝の瞳が、ぐるりと反転した。朱仝の口から、なにか呻きのようなものが漏れ、そのまま床に倒れ伏した。

「すまねぇ、朱仝」

 雷横が倒れた朱仝の肩に手をそっと乗せた。

 朱仝を昏倒させたのは、雷横の当て身だった。朱仝の元へ一足飛びに跳んで、延髄の辺りを手刀で打ったのだ。

 雷横は静かに朱仝を抱き上げると、ゆっくりと外へ向かって歩き出した。

「危なかったぜ。このひげ野郎め」

「やめなさい、李逵」

 呉用にぴしゃりと言われた李逵は、ふんと鼻を鳴らした。

「柴進どの、お騒がせいたしました」

「いや、騒ぎなら慣れている。それで、あの者が朱仝なのですね」

 呉用は黙って頷くと、いつになく神妙な面持ちで、雷横と朱仝を見つめていた。

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