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逆鱗

「坊ちゃん」

 朱仝は、そう叫び、目を覚ました。

 悪い夢を見ていたようで、全身濡れたように汗をかいていた。体に貼りついた着物の感触が、不快感を一層強いものにしていた。

 夢、ではない。朱仝は確かめるように、周囲を見回した。ここはどこだ。どこかの部屋のようだが、朱仝の記憶にはなかった。

 ゆっくりと記憶をたどる。盂蘭盆の祭りで雷横らと会った。その後、坊ちゃんがいなくなったと知り、必死に探した。怪しい影を追い、城外へ出て林の中に入った。あの男がいた。

 男の手に握られた斧が血で濡れていた。坊ちゃんが血を流し、地面に倒れていた。

 朱仝の呼吸が少しずつ荒いものになってきた。

「目が覚めましたか、朱仝」

「宋江どの」

 部屋に入って来たのは宋江だった。という事は、ここは梁山泊なのか。

 李逵を追い詰めたが、その後の記憶が飛んでいる。かすかに雷横の声が聞こえたような気がしたことだけを覚えている。

 寝台から降りようとした朱仝の前に、宋江がひれ伏した。

「本当にすまなかった、朱仝。私や、晁蓋の兄貴を見逃してくれた礼を、いつかしなければと思っていたのだが」

「宋江どの、俺が悪いのです」

 雷横だった。後ろには晁蓋と呉用がいた。

「そもそもは俺が、白秀英に手を上げていなければ」

 雷横は朱仝の顔を、じっと見つめ語り出した。

 

 朱仝が逃がしてくれたあと、雷横は一目散に鄆城へ戻ると、母親とともに逃げた。はたしてどこへ逃げたものやら思案していたが、やがて宋江や晁蓋の顔が浮かんだ。

 梁山泊、そこしかない。ほんの少し前、入山をそれとなく断ったばかりだったが、いまは追われる身であり、なんといっても老いた母がいる。

 朱貴の店から金沙灘へ渡った。

 宋江らの顔をみるなり、雷横は入山させて欲しいとひれ伏した。

 驚く宋江と晁蓋だったが、もちろん否やがあるはずもなかった。母親ははじめ怖がっていたようだが、宋江の顔を見て安心したようだった。

「ほう、お前も立派なこそ泥の仲間入りってわけかい」

 聚義庁を出ると劉唐がいた。腕を組み、柱に背をもたれさせていた。

「まさか、こんな事になるとはな。あの時、お前を叩きのめさなくて良かったよ」

「口の減らねぇ野郎だな」

「お互いさまだろ」

 雷横は深く息を吐き出すと、顔を上げた。その顔には、後悔の影など少しもないようであった。

 祝家荘戦後に人員が増え、四方の酒屋にも増員がなされた。そしてその事により、これまで以上の情報が聚義庁に集まる結果をもたらした。その中にその情報があった。

「朱仝の近況が上がってきました」

 呉用が報告に来た。晁蓋と宋江は身を乗り出した。雷横も丁度そこにおり、同じように身を乗り出した。

 報告によると、朱仝は滄州へと流罪となったが、知府のお気に入りとなり、牢にも入れられず屋敷で身の回りの世話をしているという。

「なるほど、朱仝らしいですね」

 宋江の言葉に雷横も頷いた。自分などと違って頭も良く面倒みが良い。なにより人当たりが良く、誰にでも好かれる男なのだ。苦役をさせられるでもなく、無事に過ごしていると聞いて雷横も少しは心が軽くなった気がした。

 しかし、と呉用は続けた。

「鄆城の知県の事です」

 雷横が目を見開いた。あの知県が何だというのだ。

「彼はまだ諦めていなかったようなのです、雷横」

 白秀英を失った知県は雷横に逃げられ、さらに怒りを爆発させた。

 護送中に雷横を亡き者にしようとしていたのだという。その話自体はよくある話だが、その後も知県はしつこかった。

 雷横の逃亡先をしらみつぶしに調べさせ、ついに梁山泊という答えを導き出した。その裏には張文遠(ちょうぶんえん)の助言があったらしい。

 宋江は顔をしかめ、古傷を擦るように胸のあたりに手を置いた。

 張文遠は宋江と雷横が親密だった事を知っている。そこで梁山泊に逃げたに違いないと考えたのだろう。

 しかし梁山泊に入りこまれてはさすがに手が出せない。なにしろ官軍を寄せ付けぬほどの賊徒なのだ、鄆城の知県ごときでは何もできなかった。しかし臍(ほぞ)を噛む知県に、張文遠がささやいた。

「それでは朱仝の奴めを利用してはいかがかと」

 張文遠の冷たい目に、知県はぞくりとした。

「どういう事だ。朱仝は雷横を逃したが、わしはあの男を恨んではおらんのだぞ」

「わかっております。おっしゃる通り、朱仝は雷横を逃しました。これで雷横は朱仝に大きな借りができたわけです。宋江の時もそうでしたが、どうも奴らの間では義理だとか、そういうものを大切にしているようです。わたしにはさっぱり分かりかねるのですが、そこを利用するのです」

 ふむ、と知県が顎に手を当てて唸った。

 

 盂蘭盆の日、人の群れに紛れ、呉用と雷横は滄州に潜りこんだ。別動隊として戴宗と李逵が城外の方にいる。

 雷横が朱仝を見つけた。知府の息子を連れており、他に護衛のような男もいた。朱仝に近づき、声をかけた。鄆城知府の企みを話すためだった。

 だがその時だった。朱仝が離れた隙を狙い、ひとつの影が走った。その影は護衛の目を上手くかわし、知府の息子をさらった。護衛が異変に気付いた時は遅かった。影はそのまま城外へと駆けていった。

「なんだ、あいつは」

 李逵が、子供を抱えて走る人影を見つけた。子供は動かない。気を失っているのだろうか。

「良く分からんが、きっとあいつが悪党なんだな。ようし、おいらに任せな」

 李逵が影を追い、林へと入った。

 李逵は嬉々として影を追った。足の速い李逵ではなかったが、相手は子供とはいえ、人ひとりを抱えていたのだ。李逵は手の届く距離まで近付くと、思いきり斧を振り下ろした。

 影の着物に裂け目が走った。驚いた影は刀を構え、李逵の方を振り向いた。

「へへ、ちょっと浅かったかな。とっととこの李逵さまに斬られるんだな」 

 李逵が腕を振り回し、影を襲う。しかし影は素早く木の裏に回り、子供を抱いたまま器用に斧を避ける。李逵の斧は木をも斬り倒すのだが、影には当たらない。

「ちょろちょろするんじゃねぇ」

 李逵の頭に血がのぼる。力任せに斧を振り回し、その度に木が倒れた。それが功を奏したたのか、影の隠れる場所がなくなってきた。

 表情は覆面で見えないが、影は焦ってきたようだ。ついに李逵と向きあい、刀を構えた。

「そうこなくっちゃなあ」

 李逵がにやりと笑い、突進した。

 だが影は刀を振るうのではなく、なんと抱いていた子供を、楯のように自分の前に出したのだ。

「て、てめぇ」

 李逵は慌てて斧を引き戻そうとするが間に合わなかった。

 斧が子供の額を斬り、血が噴き出した。そして影はその隙を見計らい、子供を放りだすと林の奥へと消えた。

 子供を見下ろし、途方に暮れる李逵は、葉を踏む音を聞いた。

 そこには目を見開き、李逵を凝視した、腰まで髯のある男が立っていた。

「何だと、あの男ではないというのか」

 朱仝は雷横に詰め寄った。うむ、と雷横が頷いた。

 張文遠は朱仝自身ではなく、朱仝に懐いているという滄州知府の子供を狙った。腕も立つ朱仝には手が出せないからだ。そこがまさに張文遠らしさでもあるのだが、子供を攫いそれを餌に朱仝をおびき出す。もちろん丸腰でだ。そしてその朱仝を餌に雷横をおびき出そうという策であった。

 だが子供は攫われ、逆上した朱仝は李逵を追いかけた。止められない朱仝を、雷横は仕方なく気絶させ梁山泊へと運んだのだ。

「今の話は本当なのだ、信じてくれ。俺がすべての原因なのだ」

 本当なのか、いや本当なのだろう。雷横が嘘のつけない男だという事は、自分が一番知っているではないか。だから長年、信頼し相棒としてやって来たのだ。

 朱仝は天井を見上げ、目を閉じた。宋江も晁蓋も何も口にしなかった。ただ朱仝を見つめているだけだった。

 朱仝の目からひと筋の涙が流れた。

 朱仝がつぶやいた。

「坊ちゃん」

「なあに、おじちゃん」

 咄嗟に朱仝が目を開け、声の方を見た。

 嘘だ。幻を見ているのか。

 男に抱き抱えられ、確かに坊ちゃんがそこにいた。

 頭には包帯が巻かれていた。声は少し疲れているようだったが、確かに、確かに生きていた。

「おじちゃん、ここはどこ。このひとたちは、だあれ」

 坊っちゃん、と朱仝が駆け寄り、坊ちゃんを抱きしめた。

 大粒の涙が自慢の髯を濡らしていた。

 

 戴宗が城外をひと回りして戻ると、李逵の姿がなかった。

 飽きっぽい李逵の事だ、またどこかで油を売っているのか、などと思っていたら林の方で物音がした。戴宗は林に分け入る李逵の背中を見た。

 李逵、と声をかけようとしたが、さらに男が林へと駆けこんでいった。李逵を追うようにしていた。男はその風貌から、朱仝だとわかった。

 戴宗も林へと向かったが、すでに李逵と朱仝の姿はなかった。そこには血を流し倒れている子供がいた。何とむごい事を。しかしぴくりとその子供が動いた。微かに呻き声をあげている。

 生きているのか。脈はまだあった。

 戴宗は着物を裂くと子供の頭に巻き、背負った。

「しっかりしろよ」

 聞こえているが分からないが、戴宗はそう声をかけると懐から甲馬を取り出した。

 戴宗が梁山泊まで、神行法で駆けたのだ。

「見た目は血で凄かったが、意外と傷は浅かったようだ」

 坊っちゃんを朱仝に渡した戴宗が腕を組んで笑っていた。

「この薛永と侯健も骨を折ってくれてね」

 戴宗の横にいた男たちが頭を下げた。

 梁山泊に着いた戴宗は急いで薛永の元へと走った。そして侯健をすぐに呼び、額の傷を縫ってもらった。侯健は得意の裁縫の腕を、意外なところで活かしたのだ。

 見事な縫合だった。そこに薛永の血止めの薬を塗りこんだ。血はすでに止まっているという。

「子供だから傷の治りも早い。あとは傷がふさがったら糸を抜くだけだ。この時はちょっと痛いかもしれないぞ」

「きゃっ」

 薛永の脅かすような言葉に、坊ちゃんが朱仝にしがみついた。

 侯健が笑いかける。

「大丈夫だよ、私の腕を信じなさい。それにおじちゃんが側にいてくれるさ」

「ほんとう、おじちゃん」

 坊っちゃんの瞳がまっすぐ朱仝を見つめた。

「はい、坊ちゃん。この朱仝がついております」

 そしてもう一度、朱仝が抱きしめた。

 うふふ、と坊ちゃんがくすぐったそうに笑った。

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