108 outlaws
逆鱗
二
鄆城の土を踏み、雷横は大きく伸びをした。
晁蓋と宋江は、ゆっくりして行けと言っていたが、そうはいかなかった。
朱富が作った酒を飲んだ時は、それもありかと思ったが、すんでのところで自制した。
どうやら二人は、自分を梁山泊に入れようと遠回しに言っているようだったが、この身に何ひとつやましい所はない。二人には申し訳ないが、気付かぬふりをして去る事にしたのだ。もう少し長居していれば、本当に別れ難(がた)くなってしまうからだ。
さて、朱仝の驚く顔を見ようと、牢へ向かおうとしたところである。
「おや、雷都頭さま、このところ顔を拝見しておりませんでしたね」
幇間の李小二だった。手を擦りながら、こちらへ近づいてくる。
「おお、小二か。うむ、しばらく公務であちこち行っていたからな。何だ、用でもあるのか」
「水臭い事を言いなさる。私と都頭どのとの仲じゃありませんか。良い所でお会いできました。実はいま鄆城で流行っているものをご覧いただこうと思いまして」
それは東京開封府から来ている旅芸人の一座だという。その中の白秀英という歌い手が、見た目もさることながら、なかなかの喉を披露するので大変な賑わいだというのだ。
雷横は思い出した。確かに開封府にいた時、その名を聞いていた。今は旅に出ていて聞かせられないのが残念だ、と役所の人間が言っていたが、まさかそれが鄆城に来ていたとは。これは聞かなくてはなるまい。
李小二の案内で、芝居小屋へ行き、特等席に案内された。腰を下ろしてから、ふと朱仝の事を思い出した。だが間もなく前座の寸劇も終わるところである。この後でも遅くあるまい、と雷横は腰を落ち着けた。
やがて舞台に一人の老人が現れた。
「手前は東京開封府の者にて、白玉喬と申します。ご覧の通り、いささか年をとっておりますゆえ、お見せできる芸などございません」
口上を述べはじめた白玉喬を雷横がみつめた。年をとっている、などと言っているが小屋の端まで良く通る声だ。雷横の期待は高まった。
「しかして次なる演目では我が娘、秀英の登場にございます。僭越ではございますが、天下の皆さまのご機嫌を伺う事にいたしましょう」
口上に合わせて、白秀英が舞台に姿を見せた。四方にお辞儀をして回る秀英に、観客たちは早くも喝采を送っている。
白秀英が拍子木をひとつ打ち鳴らす。静かになった小屋に、ゆっくりとしかし深く、白秀英の唄が始まった。
ほう、と雷横は漏らした。開封府で名を聞いただけの事はある、確かに良い歌声だった。
緩やかに軽やかに、時に重厚に歌を紡いでゆく。何度も足を運んでいる客も口を開けて聞き入るばかりであった。
そして唄が佳境を迎えようという時、拍子木が鳴らされた。
脇から白玉喬が声をかける。
「勿体ぶるつもりではございません。前金をいただくほどの芸ではございませんが、もしご寛大なお方がおりましたら、ぜひお願い申し上げたく存じます。この続きは、その後にゆっくりとご覧いただきましょう。どうか娘を素通りさせる事の無きようお願い申し上げます」
つまり、おひねりを出せという事だ。
白秀英が盆を持ち、舞台から降りてくる。客席を一度眺め、まずは特等席、雷横の元へとやって来た。ぺこりと白秀英が頭を下げ、微笑む。
さて、と懐に手を入れた雷横だったが、そこには何もなかった。
む、と思いながらも腰の袋、袖の中、果ては靴の中まで探すが一文(いちもん)たりとも見つからなかった。小二を探すが見当たらない。どこかへ行ってしまったようだ。
「これは、申し訳ない。たまたま持ち合わせが無いまま来てしまったようだ。お詫びと言っては何だが、明日も来て一緒にお渡しするよ。本当に申し訳ない」
困りはてた顔で雷横が頭を掻いている。白秀英はにっこりと微笑んで、
「初めの醋(す)が効いていないと、その後も薄味のままと申します。第一番の席にいらっしゃるお客さまが皮切りになっていただかなければ」
と雷横を促す。しかし無い袖は振れないのだ。
「ええい、本当に悪かったと言っているだろう。今日は本当に持ち合わせがないのだ。たまたまなんだ、出さないという訳ではないんだ」
白秀英の目が途端に冷たいものへと変わった。
「唄を聴きに来ておきながら、お金を忘れるなんて」
「あれば四両でも五両でも出すさ。あいにく、今日は忘れたんだ」
「まあ、一銭も無いくせに四両だ五両だなんて、まるで梅を見て喉を潤すようなものだわ」
雷横の顔は真っ赤になっている。そこへ白玉喬が畳みかける。
「秀英や、もうおよし。田舎者を見分けられなかったお前も目がないんだ。ほら、もっと他物分かりの良いお方のところへお回り」
このやりとりを聞いていた観客がどっと笑った。雷横は顔をさらに赤くさせ、立ち上がる。
「おい、俺を馬鹿にしているのか。せっかくこうして聴きに来たというのに」
白秀英が鼻を鳴らす。
「あら、あんたに芝居の事が分かるってんなら、犬の頭に角が生えるってもんだよ」
さらに観客たちが湧く。手を叩いている者までいる。雷横はそれでも必死にこらえていた。
観客の中から、白玉喬に向かって、
「そのお方は雷都頭さまだぞ。やめておけ」
と声がかかる。しかしそれを鼻で笑う白玉喬。
「ふん、何が雷都頭だ。どうせ驢筋頭(ろきんとう)だろうに」
雷横が跳んだ。馬の骨と罵られ、堪忍袋の緒が切れた。雷横はそのまま舞台の白玉喬に拳を喰らわせた。
白秀英が悲鳴を上げ、観客たちは急いで二人の間に割って入った。
雷横は人々になだめられ、何とか怒りを落ち着かせると、小屋の外へと出て行った。背中に白秀英からの罵声が浴びせられていた。
くそ、と道端の小石を雷横が蹴とばした。
戻ってきた李小二が、怒っている様子の雷横を見て、心底不思議そうな顔をしていた。
「雷横を捕らえよ」
知県が唾を飛ばし、捕り手たちに命じた。雷横を良く知る捕り手たちは顔を見合せ、困っていたが、知府には逆らう事はできない。仕方なく雷横の元へと出向くしかなかった。
何故、雷横が捕らわれなければならないのか。
白秀英であった。
今の知県は東京から赴任してきた。そして東京時代から白秀英には熱を上げており、白秀英もまたこの男と懇ろになっていた。白秀英の一座が鄆城県までやってきた理由の一つもそれだという。
白秀英は寝室で知県に、涙ながら訴えた。知県は自分の事ののように怒ると、雷横の捕縛を命じたのだった。しかし事はそれだけに収まらなかった。
「あの男に大恥をかかせてやらなきゃ、気が済まないわ。お父さまは殴られて、歯が半分も抜けたのよ。許せるもんですか」
かくして雷横は、白秀英の芝居小屋の前に連れてこられ、膝立ちにさせられた。しかしその朝、小屋を開けに来た白秀英がそれを見て叫んだ。
「あんたたち、どうして縄をかけていないのよ。この男と仲間だからって甘い顔してるんでしょ。しっかりとさらし者にしてちょうだい。私の言う事は知県さまの言う事なのよ、わかるでしょ」
白秀英の言うとおりだった。雷横と飲み仲間である彼らには縄をかけるなどできなかったのだ。しかし白秀英がやかましく急きたてている。顔を見合わせている牢役人たちに、雷横は言った。
「お前ら、あの女の言う通りにしてくれ。俺は何とも思っちゃないさ。かっとなって殴っちまった俺も悪いかも、だからな。それよりお前らが、知県さまにとやかく言われる方が俺には辛いのさ」
それを聞き牢役人たちが、すまねぇと雷横に縄をかけてゆく。それを見て白秀英は満足したのか、近くの茶屋へと入って行った。
しかし、そこへ雷横の母が通りかかった。雷横に弁当を届けに行くところだったのだ。
「わしの息子になにをしてるんだ、お前たち」
弁当を放りだして、雷横に母が駆け寄った。牢役人たちも雷横の母とは、もちろん顔見知りだ。
「仕方ないんだ。俺たちも辛いんだが、知県さまの命令でして。俺たちは雷横には厳しくしたくないし、かと言って知県さまの命令も聞かなくちゃならんので、板挟みなのさ」
牢役人が雷横の母に事情を説明した。
「お袋、俺は大丈夫だ。ちょっと面倒起こしちまってね、すまねぇ。まあ二日もしたら帰るからよ」
「何言ってんだい」
雷横の母はそう言って、縄を解きにかかった。白秀英と知県の関係を聞き、怖れるどころかかえって怒りを募らせたようだ。雷横は、大丈夫だ大丈夫だ、と宥めるが母は聞こうとはしない。牢役人も、やめてくれと言いながら手も出せずに見ていることしかできなかった。
「なにしてんだい、この老いぼれ。余計なことするんじゃないよ。そいつは私の父さんを殴り飛ばしたんだ。都頭のくせに私たちに暴力を振るうなんて。ここでさらし者になって反省してもらうんだよ」
「お前かい、知県さまと懇ろになっているあばずれというのは。ふん、見た目の通り、意地の悪そうな女だね」
それに、白秀英が眉を吊り上げ怒り出した。白秀英と雷横の母、お互いに罵りあいは激しくなるばかりで、こうなっては男どもは止める術を知らない。
だが軍配は雷横の母に上がった。やはり年季の差だろうか。言葉が尽きた白秀英は金切り声を上げ、雷横の母に駆け寄った。
乾いた音が響いた。白秀英が雷横の母に平手打ちを見舞ったのだ。さらによろめいた雷横の母を突き飛ばすように、もう一発放った。
縄が千切れる音がした。憤怒の表情の雷横が、縄を引きちぎり、白秀英めがけて跳んだ。
雷横の放った拳で白秀英は吹っ飛ぶと、地面を転がった。
雷横が母を助け起こし、牢役人たちは白秀英を見にいった。彼らは雷横を神妙な面持ちで見つめると、首を横に振った。
雷横の拳で白秀英は死んだ。母を殴られた怒りで加減する事ができなかったのだ。屈強な賊どもでも殴り飛ばす雷横なのだ。ましてや白秀英は一般の、それも女であったのだ。
雷横はすぐに冷静になると、天を仰ぎ見た。そして歯噛みすると、牢役人たちに再び縄をかけさせた。いつまでも母の嗚咽が聞こえた。
知県の怒りは尋常ではなく、雷横は即刻投獄された。
「まったく、だからいつも言っていたのだ。すぐに怒るのがお前の悪いところだと」
雷横が入れられた獄の牢番が笑いながら言った。
「ああ、お前の言う通りになっちまったな」
雷横がにやりと笑った。
鄆城に帰ってきたら会おうと思っていた。こんな所で会うとは。
その牢番は朱仝だった。
朱仝は、腰ほどまである長い髯を擦るように撫でていた。
雷横が済州府へと送られる、拘留期限が過ぎた。
朱仝はその間、賄賂を知県に送り、雷横の助命を嘆願したのだが叶わなかった。この知県も真面目で人当たりの良い朱仝の事は気に入っていたのだが、白秀英を失った怒りと悲しみを消すことはできなかった。
このままでは済州で死罪が布告されてしまう。何度も訪ねてくる雷横の母に、安心してくださいと言ったが、このままでは。朱仝は眉に皺をよせ、目を深く閉じた。
「もういいよ、朱仝。俺のためにそこまでしてくれるなんて、本当にありがたいが、俺がやっちまった事は、俺が責任をとるよ」
雷横にかける言葉がみつからなかった。
そして、その日が来た。
雷横は十人ほどの護送役人に囲まれ、鄆城を出た。最後尾をゆく朱仝は鄆城を振り返ったが、雷横の母の姿は見えなかった。来られなかったのだろう。ひと目会えば、別れは余計辛くなるものだ。
鄆城を出て十里あまり、一軒の居酒屋が見えてきた。誰からともなくそこで休もうという声が上がった。
「みんな、先に入っていてくれ。雷横の奴が小便をしたいそうだ。済ませてから、わしも行くことにするよ」
俺は小便など、と言いかけた雷横の背をせっつき、朱仝が店の裏へと連れてゆく。
「おい、俺は小便など」
「良く聞け、雷横」
いつにない真剣な目だった。雷横も口を真一文字に結んだ。
「お前は逃げるのだ。このまま済州に行けば間違いなく死罪だろう。そうなれば、お前の母は誰を頼りに生きていけばよいというのだ」
そう言いながら、朱仝が枷を外してゆく。
「だめだ、朱仝。そうなればお前の身がどうなるか分からんではないか。お前にも家族はいるのだぞ」
「大丈夫さ。役人どもを買収するくらいの蓄えはあるし、重くとも死罪にはならんだろう」
「とは言え」
「いいから行くんだ。たまにはわしの言う事も聞いてくれ。生きていれば、またどこかで会えるさ」
雷横の目に涙が浮かんだ。それを見せないかのように深く頭を下げると、背を向けて駆けだした。
「すまない、朱仝。必ず、必ず、この礼はさせてもらうぞ」
雷横は涙を拭いもせずに駆け続けた。朱仝の奴め。きっと晁蓋も、宋江も、こうして救われたのだ。
髯に手を添え、微笑む朱仝の姿が浮かんだ。
叫び出したい衝動を抑え、雷横は飛ぶように駆け続けた。
張文遠はつまらないものを見るような目で、知県の前にいた。
白秀英の命を奪われ、喚き散らす知県を見てうんざりしていた。
まるで自分を見ているようだ。
宋江から閻婆惜を奪ったと思っていた。しかし心は宋江のものだった。閻婆惜の気を惹こうと必死だったのだ。
あの頃の自分は、いま目の前にいる惨めな男のようだったのだろうか。
「雷横の奴はどこへ逃げたのだ。わしの秀英に手をかけおって、決して許しはしないぞ。何か良い策はないのか、張文遠」
張文遠も今は押司である。宋江が去った後、鄆城の役所で胥吏をまとめる役になった。そして時文彬も転任になり、この知県がやって来た。
開封府からこの鄆城に来た事に不満を持っており、たいして仕事をしようとしなかった。そして実質的にこの役所での業務を仕切っている張文遠に頼りきりになったのだ。
雷横を逃したという朱仝(しゅどう)は自首をしてきた。小便に連れて行った時に、雷横が襲ってきたのだという。朱仝の顔には雷横に殴られたという、血の跡が残っていた。知県はもちろん激怒し、朱仝を牢へ放り込んだ。
張文遠はじめ役人の誰もが、朱仝がわざと逃したという事は分かり切っていた。
しかし、と張文遠は思う。晁蓋に危機を知らせた宋江も、その宋江を逃した唐牛児や、今回の雷横の件でも、どうしてそこまでする必要があるというのか。どうして自分が捕まると分かっていて、他人を助けたりなどするのだろうか。
ふと張文遠が思いついた。朱仝と雷横は宋江と親しかった。そしてあの手紙で見たように、宋江は晁蓋とつながっていた。
もしかすると、雷横は梁山泊へと逃れたのではないだろうか。
張文遠の目に、暗い光が湛えられているようだった。