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虎穴

 青い眼の男だった。

 顔の彫りも深く、どこか異国人を思わせる風貌だった。

 故に青眼虎(せいがんこ)と呼ばれるその男、李雲(りうん)は沂水県の都頭であった。

「江州で謀反を起こした手配人の李逵という者が沂嶺村で取り押さえられておる。村を騒がすことなく、そ奴を引き取ってまいれ」

 知県からそう命令を受け、李雲はかしこまって退室すると老練な民兵を集め、沂嶺村へと向かった。

 一方、その李逵は曹太公の屋敷の奥の間にいた。

 縄をこれでもかとばかり巻かれ、身動きできないまま転がっていた。もっとも李逵はしこたま酒を飲んで酔い潰れていたのだが。

 虎退治の英雄が李逵だと知り、李鬼の妻は村長(むらおさ)の元へ駆けこんだ。そしてあれは英雄などではなく、重罪人の李逵だと告げたのだ。

 あの黒旋風の李逵か。村長は急いで曹太公の元へと使いを走らせ、そして李逵はまんまとつぶれるまで飲まされたという訳だった。

 沂水県はそれほど大きな所ではなく、黒旋風捕縛の報は瞬く間に広がった。

「あいつ、何をしでかしたのだ」

 その情報は、李逵を待っていた朱貴の元にも届いていた。

 李逵が問題を起こさぬように見張りを言いつけられていたが、少し目を離すとこの有様だ。普段から懐かれている戴宗の苦労が分かったような気がした。

 しかしどうやって李逵を救い出すべきか。梁山泊の救援を待っている余裕はないようだ。

「兄さん、聞きましたよ」

 朱貴の元へ、弟の朱富がやってきた。

「おお、お前も聞いたか、富(ふう)よ。いまどうやって救い出したものか思案していたのだ」

「その事で良い案が」

 笑面虎(しょうめんこ)と呼ばれる朱富はにこりと微笑んだ。

 

 銅鑼が打ち鳴らされ、捕り手たちが行進してきた。

 三十人ほどの民兵が、後ろ手に縛った李逵を囲んでいる。

 最後尾の馬上には、都頭の李雲。青眼虎の名に恥じぬ、堂々たる姿であった。

 おや、と李雲は青い目を凝らした。行列の進む脇に、なにかを持った一団が待っていた。

「お師匠さま、遠路はるばるご苦労様でございます。皆さまもお疲れでしょう、些少ではございますが、差し入れなどお持ちいたしました」

 それは朱富と店の者たちだった。店の者は酒の入った桶をいくつかと、肉や菜などの肴を入れた箱を持っていた。

「おお、朱富ではないか。気を使わずとも、良いのに」

 李雲は朱富の武芸の師でもあった。

 ある時、李雲は朱富の店にいた。酒は飲まず、飯だけを食っていた。

 この李雲、生来酒が弱く、二杯ほどで顔を真っ赤にしてしまうほどであったのだ。

 朱富の酒は評判が良い。飲めない李雲であったが、仲間と共にわいわいやるのは好きだった。その日も、部下が飲みたいというので共に来ていたのだ。

 店の奥の方で何かが割れたような音がした。続いて怒声が聞こえた。

 何事かと行って見ると、どうやら酔客が暴れているようだった。酒で気が大きくなったのだろう。床には割れた徳利と杯が散らかっていた。

 困ったものだ、と李雲が取り押さえようとした時だ。店の主人である朱富が客の前へと出た。困った様子もなく、にっこりと笑顔であった。

 酔客が何かを言い、朱富の胸倉を掴んだ。

 危ない、と李雲が飛び出したが、それは杞憂に終わった。

 朱富が酔客の腕を捻(ひね)ると、地面に引き倒してしまったのだ。さらに朱富が腕を捻じりあげ、客は痛みで悲鳴を上げた。

「金はいらねぇから、とっとと出て行きな。二度と来るんじゃねぇぞ」

 朱富の表情が一変していた。

 菩薩のような笑みは消え、そこには怒気を帯びた仁王がそこにいた。

 酔客は腕をおさえ、ほうほうの体(てい)で逃げてゆく。

「皆さま、ご迷惑をおかけいたしました。無粋な者はもう居(お)りませんので、お食事の続きをごゆるりとお楽しみください」

 一同に向けた顔は、すでにあの微笑みだった。

 李雲は、朱富が笑面虎と呼ばれていた理由を知った。

「見事なものですな、朱富どの」

「いえいえ、所詮我流ですから」

 それから二人は良く話すようになった。そしていつしか朱富は李雲を師と仰ぎ、少しではあるが武芸を教えてもらうようになっていったのだ。

「あのお尋ね者が捕らえられたとか。そのお祝いにと思いまして」

 李雲ら一行は、出発前に曹太公の所でも酒や料理を振る舞ってもらっていた。あまり腹は空(す)いていないのだが、部下たちを見ると飲みたそうな顔をしていた。

 それほど朱富の酒は美味いという事だ。

「では、ありがたく頂戴するとしよう」

 店の者が酒を壺に移し、兵たちに配ってゆく。

 あちこちで、美味いという声が上がっている。

 李雲も二杯だけ口にした。

 朱富の酒は、下戸の李雲でも美味いと思う。ただ、これ以上飲んでしまうと任務に支障をきたしてしまう。

 では肉を、と朱富がふた切れほど皿に盛った。牛肉を塩辛く煮たもので、李雲もよく好きだった。

 李雲はそれを口へ運んだ。噛まずとも、口の中でほろほろと蕩(とろ)けるような柔らかさだ。

「うむ、やはり美味いな」

「ありがとうございます」

 朱富も満面の笑みを浮かべ、兵たちも笑顔だった。

「おい、おいらにも食わせてくれよ。腹が減って仕方ないのだ」

 捕縛されている李逵がその光景を見て叫んだ。

「何を言っている、この罪人め。ずうずうしい事を言いおって」

 む、と李逵は顔をしかめた。見れば朱貴の弟の朱富だ。

 どうして都頭をもてなしてなどいるのだ。

「おい、お前は」

 朱富ではないか、と言おうとした矢先、李逵の口に手拭いが突っ込まれた。

 目を丸くし、もごもごと呻く李逵。

「お前はこれでも食っていろ」

 店の者の中でも年嵩(としかさ)の男がそう言って睨んだ。

 そうしている間に料理と酒はきれいになくなり、一同は満足げに腹を擦っていた。

「さあ、充分に飲み食いしただろう。そろそろ出発するぞ」

 李雲が腰を上げ、部下たちに命じた。

 ところが部下たちは立ち上がることなく、次々とごろりと道端に転がり出した。口から涎を垂らしている者までいる。

「これは」

 と叫び振り向く李雲だったが、突如頭が揺れた。

 酔い、ではない。足もとが覚束なくなり、部下と同じように地面に倒れた。

 朦朧とする意識で、しびれ薬を盛られた事を理解した。

 霞む視線の先で、朱富が本当にすまなそうな顔をしていた。

 

「まったく、驚いたぜ」

 ぶちぶちと音を立て、李逵を戒めていた縄が千切れてゆく。

「あんた等がおいらを売っちまったのかと思ったよ、朱貴」

 自由になった太い腕を、李逵がぐるぐると回した。

「さっきはすまぬな。余計な事を言って作戦が台無しになってはいけなかったのでな」

 先ほど李逵の口に手拭いを詰め込んで黙らせたのは、店の者になり済ました朱貴であった。朱富と李逵が顔見知りであると露見してしまえばこの作戦、酒と食事にしびれ薬を混ぜるという作戦が失敗してしまうからだ。

 ありがとよ、と李逵が倒れている兵から刀を奪った。そして都頭である李雲に狙いをつけた。

「待て、待ってくれ、李逵。その人は俺の師匠なのだ。本当に立派な都頭で何にも悪い事はしてないんだ」

 李逵を慌てて止める朱富。明らかに不満そうな李逵だったが、ふん、と鼻を鳴らしてこの場は矛を収めたようだ。

 しかしその矛先は別な方へ向いてしまった。

「しかし、あの曹太公の家の連中には腹が立つ。よってたかって俺さまを騙しおって。これから行って全員叩き殺してくれるわ」

「まあ、待つのだ李逵よ。いつまでも沂水県にいる訳にはいかないのだ。ここで必要以上に暴れて、また罪が大きくなれば、晁蓋どのや宋江どのにご迷惑がかかってしまうのだぞ」

 むう、と李逵は朱貴の言葉に一応の納得を見せたようだった。

 朱貴は冷や汗を拭き、安堵の溜息をもらした。李逵が暴れてしまえば、止められる者は戴宗か宋江しかいないのだ。故郷に戻れることもあり引き受けてしまったが、朱貴はほんの少しだけ後悔をしていない訳ではなかった。

 李雲らを道に放ったまま、朱貴らは梁山泊へと向かっていた。

「しかしすまぬな、朱富。お前まで梁山泊へ行く事になってしまうとは」

 心配そうに言う朱貴に、なんだよ良い事じゃねぇか、と李逵が笑った。

「ふふふ、李逵の言う通り、俺は大丈夫ですよ。兄さんの話を聞いていて、ちょっとは梁山泊に憧れていた気持ちもあったんです。近頃の役人の横暴は本当に目に余るものがある。世直しのために少しでも役に立ちたい、というのは格好つけ過ぎだけど」

 ちらりと朱富が李逵を見た。

「何より、俺の酒を本当に飲みたがってる奴らが、梁山泊にはごろごろいると思ってね」

 そう言って、朱富はにっこりと笑みを浮かべた。

 朱貴は、弟ながら呆れるやら頼もしいやら、何とも言えない気持ちだった。

 こと酒造りに関しては、朱富の右に出る者はいない、と朱貴も思っている。

 確かに梁山泊は酒豪が多いし、ことある毎に宴が開かれている。酒がありすぎて困るという事はないのだ。

 そうか、と朱貴も肩の力を抜いた。

「待てい、盗賊ども」

 その時、そう叫びながら駆けて来る者があった。

 青眼虎の李雲である。李雲は酒もふた口ほど、肉もほんのふた切れしか食べておらず、他の者よりも薬の効き目が薄かったのだろう。しかし、これほど早く薬の効力が切れるとは、李雲自身の胆力が相当なものだったからなのだろう。

 李雲は怒りを浮かべ、朴刀を構えつつ駆けてくる。

 来やがったな、と李逵も朴刀を抜き走り出した。

 街道の中央で二人が激突した。がきっ、と朴刀が火花を散らした。

 李逵は持ち前の腕っ節で刀を振り回す。刃は風をはらみ、まさに黒旋風だ。

 一方、李雲は力ではやや劣るものの、その太刀筋は千変万化。時おり繰り出す必殺の手はまさに虎の爪を思わせる技だ。

 その一撃が李逵の胸元を襲う。何とか避(よ)けようとした李逵は体勢を崩し、片膝をついてしまった。

 そこへ追撃の刃。今度は李逵の首を狙っている。

 かわせない。 

「待ってください」

 朱富が二人の間に飛び込んだ。

 武器も持たず、李雲に向かって両腕を広げた。

 李雲は、刃をなんとか止めた。

 李雲は深い安堵の溜息をついた。

「危ないではないか、朱富。命を無駄にするではない」

 李雲の刀が朱富の首筋ぎりぎりで止まっていた。

「さすがお師様です。信じていましたよ」

「ちぇ、斧じゃないから調子が出なかったぜ」

 李逵が負け惜しみを言い、朱貴と李雲は苦笑した。

 朱富はいつものように笑みを浮かべていた。

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