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夢想

 手にしていた杯を投げつけ、田虎が吼えた。

 田虎の眼下では、于玉麟と盛本が酒に濡れ、跪いている。

「お前たちはそれでのこのこと逃げてきたという訳か」

「申し訳ございません。援軍をお借りできれば、必ず奴らから城を奪還してみせます」

 新しい杯が渡され、田虎は酒で喉を潤した。

 酒が美味くない。陵川、高平さらに蓋州まで占領されてしまうとは。

 蓋州は東京開封府へ至る足がかりであった。だから八臂鬼王の鈕文忠に任せたのだが。

「所詮は山賊か」

 田虎の言葉を聞き、于玉麟のこめかみに筋が浮かんだ。面を上げていたならば、その怒りの表情が見えただろう。

 于玉麟は元々、鈕文忠の配下である。その鈕文忠のおかげで田虎も勢力を伸ばせたというのに。

 ならばお前はただの猟師だろうが。その言葉を飲み込み、于玉麟はなおも嘆願した。

 田虎はあご髯を捻り、考えるような顔をする。

「范(はん)都督、どうしたら良い」

 それに応じて前に出たのは、官服を着た范権という男。白髪混じりであるが、背筋は伸びている。眼光が鋭いというよりも、どこか人を見下しているような風である。

 この范権、威勝近くの村の庄屋であった。田虎らに襲われた時、誰よりも早く逃げだしたが捕らえられてしまう。

 殺される。絶望した范権を救ったのは、彼の娘だった。娘は器量が良く、田虎はひと目で気にいってしまった。その娘を躊躇いもなく差し出し、范権は田虎の義父となった。

 仮にも庄屋であったため人を治める方法を知っていた。それは田虎の地位と勢力を拡大するのに大いに役立った。かくして田虎は范権に全幅の信頼を置くようになっていった。

 そうですな、と各地の将の配置を頭の中で確かめる。

「いま動かす事のできる将はおりません。ですがこちらから動かずとも、迎え討てば良いのです。威勝に至るまでには山士奇、卞祥など勇猛な将が山ほどおりますからな」

「うむ、そうか。という事だ、于玉麟よ」

 ぐ、と歯噛みをし、田虎の前から去る于玉麟。こうなれば、許可を得ずとも動くしかあるまい。

 盛本も悔しそうな顔を隠そうともしない。

「くそう。そうだ孫安どのに頼んでみては」

「うむ、おそらく聞いてくれるだろう。だが」

 孫安軍は常に動いており、居場所を掴むことは容易ではない。それが許されるほどの実力だという事でもあるが。

 はっ、と于玉麟が閃いた。

「おい盛本、彼はどこにいるか確かめてくれ」

「彼とは誰です」

 于玉麟が声をひそめて言う。

「太子の田定だ。田虎のどら息子だよ」

 

「これは太子さま。こんな所までわざわざいらっしゃるなんて。一報くだされば、お迎えにあがったものを」

「いや、仰々しいことは嫌いなのでな」

 田定が立派な衣装で、胸を反らして言う。まだ二十歳そこそこで、あどけなさの残る顔立ちだ。

 田定は太原に来ていたが、実は田虎には黙ったまま出てきていたのだ。

 跪く太原守将の張雄は、その態度とは裏腹に心中で唾を吐いていた。

 驚かせるんじゃないぞ、まったく。まあ適当にもてなして、田虎に良い報告をしてもらうとしよう。

 その胸中を知らぬ田定が言う。

「そう畏まるな。立ってくれ」

 では、と張雄が応じる。すると張雄の頭が、田定の遥か上になった。張雄は望楼塔と呼ばれるほどの長身であった。

 さすがに田定の顔が曇った。

「それで太子、ここへは何をなさりに来たので」

「あ、ああ。そうだ、ちょっと視察にな」

「太子は城でじっとしていられないと見えますな。正直言えば、退屈だったのでしょう」

「ま、まあ、そうとも言えるかな。親父は戦に出してくれないし、俺を見くびっているのさ。そう思わないか」

「そんな事ありませんよ。田虎さまは太子に何かあってはとお考えなのです」

 そうかな、と鼻をこする田定。

 張雄は口の端を歪めるが、田定には見えない。そして張雄が部下を呼んだ。統制の徐岳と項忠である。

「こ奴らが面白いところへ案内します。申し訳ありませんが、わしは仕事が溜まってまして。ここで失礼させていただきます」

 田定が二人に連れられて行くと、張雄は解放されたように大きく伸びをした。長身がさらに大きく見える。

「おい、酒と肴を用意しておけ。夕刻には帰ってくるだろう。ああ、わしの部屋にも酒を持って来い」

 仕事など、無い。田定の相手をするのが面倒なだけだ。張雄は部下にそう命じると、自室へと戻った。

 

 石室山の石切場。昼の休憩の合図があった。

 童威が顔を上げ、汗を拭いていると、童猛が駆けて来るところだった。

「どうした、猛」

 童猛は作業場の向こうを指差した。次の瞬間、作業場の外から、大勢の人間がなだれ込んできた。

「おいおい、何だよあいつら。勝手に入ってくるんじゃないぞ」

 童威が制止しようと向かった。が、違和感に足を止めた。

 乱入者たちはいずれも農夫ばかりで、女子どもまでいる。そしてどの顔も何かに怯えているような、恐怖にひきつっていた。

「何ごとだ。何だあの連中は。止めるんだ、童威」

 この騒ぎに、李俊が駆けつけた。その間にも、群衆は続々となだれ込んでくる。

 陶宗旺の手下たちも協力し、その群集たちを一か所に集め、とりあえずは落ち着かせることにした。

 喧騒がおさまる頃、初老の男が進み出て頭を下げた。彼らは太原周辺の村に住む者で、そこから逃げてきたのだという。男は李太公といった。

「これまでも何度か来てはいたんです。その都度、貢物をして難を避けていたのですが」

 太公の顔が話すごとに暗く沈んでゆく。李俊らは黙ってそれを聞いた。

 数年前から田虎が河北で勢力を拡大していた。太原城も抵抗したが敗れ、田虎の支配下に置かれた。村には税を納めるように通達が来た。不当な要求だったが、それで皆の安全が保たれるのならば、と李太公は応じた。

 だが最近、太原に駐留する者が変わった。見上げるほどの大男、張雄とその二人の配下、徐岳と項忠が主だった者だ。この三人が最悪であった。

「そいつらには人の心が通っておりません」

 少しでも逆らおうとする者、果ては気に食わない者を躊躇なく殺してしまう。さらに若い女を城へ攫っていき、戻ったものはいないという。

 そして今日、村が前触れもなく襲われた。

 徐岳と項忠が見知らぬ若い男を連れていた。彼らが一軍を率い、村人たちに矢を射かけたのだ。

「狩りと称して、わしらを追いたてたのです」

 李太公の目から涙があふれ出た。

「虫唾が走る連中だぜ」

 童威が唾を吐き、毒づいた。

 まったくだ、と李俊が立ち上がった。腰に佩いた刀を確かめる。

 そこへ張横が現れた。

「そこら辺でうろちょろしてた怪しい奴を捕まえたぜ」

 後ろ手に縛られた男が李俊の前に放り出された。

 男はふてぶてしい態度であった。そして自分から、徐岳の手下だと言った。村人たちを探しに先駆けてきたのだという。

「すぐに親分たちがここに来るぞ。そしてら皆殺しだぜ。へっへっへ」

 張横が男の後ろに立った。手には小刀。それを首筋に当て、素早く横に引いた。

「面白そうな時に来たぜ。阮の兄弟たちがいなかったことを悔しがるだろうな」

 ひっ、と村人たちの悲鳴が聞こえた。

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