108 outlaws
夢想
三
手にしていた杯を投げつけ、田虎が吼えた。
田虎の眼下では、于玉麟と盛本が酒に濡れ、跪いている。
「お前たちはそれでのこのこと逃げてきたという訳か」
「申し訳ございません。援軍をお借りできれば、必ず奴らから城を奪還してみせます」
新しい杯が渡され、田虎は酒で喉を潤した。
酒が美味くない。陵川、高平さらに蓋州まで占領されてしまうとは。
蓋州は東京開封府へ至る足がかりであった。だから八臂鬼王の鈕文忠に任せたのだが。
「所詮は山賊か」
田虎の言葉を聞き、于玉麟のこめかみに筋が浮かんだ。面を上げていたならば、その怒りの表情が見えただろう。
于玉麟は元々、鈕文忠の配下である。その鈕文忠のおかげで田虎も勢力を伸ばせたというのに。
ならばお前はただの猟師だろうが。その言葉を飲み込み、于玉麟はなおも嘆願した。
田虎はあご髯を捻り、考えるような顔をする。
「范(はん)都督、どうしたら良い」
それに応じて前に出たのは、官服を着た范権という男。白髪混じりであるが、背筋は伸びている。眼光が鋭いというよりも、どこか人を見下しているような風である。
この范権、威勝近くの村の庄屋であった。田虎らに襲われた時、誰よりも早く逃げだしたが捕らえられてしまう。
殺される。絶望した范権を救ったのは、彼の娘だった。娘は器量が良く、田虎はひと目で気にいってしまった。その娘を躊躇いもなく差し出し、范権は田虎の義父となった。
仮にも庄屋であったため人を治める方法を知っていた。それは田虎の地位と勢力を拡大するのに大いに役立った。かくして田虎は范権に全幅の信頼を置くようになっていった。
そうですな、と各地の将の配置を頭の中で確かめる。
「いま動かす事のできる将はおりません。ですがこちらから動かずとも、迎え討てば良いのです。威勝に至るまでには山士奇、卞祥など勇猛な将が山ほどおりますからな」
「うむ、そうか。という事だ、于玉麟よ」
ぐ、と歯噛みをし、田虎の前から去る于玉麟。こうなれば、許可を得ずとも動くしかあるまい。
盛本も悔しそうな顔を隠そうともしない。
「くそう。そうだ孫安どのに頼んでみては」
「うむ、おそらく聞いてくれるだろう。だが」
孫安軍は常に動いており、居場所を掴むことは容易ではない。それが許されるほどの実力だという事でもあるが。
はっ、と于玉麟が閃いた。
「おい盛本、彼はどこにいるか確かめてくれ」
「彼とは誰です」
于玉麟が声をひそめて言う。
「太子の田定だ。田虎のどら息子だよ」
「これは太子さま。こんな所までわざわざいらっしゃるなんて。一報くだされば、お迎えにあがったものを」
「いや、仰々しいことは嫌いなのでな」
田定が立派な衣装で、胸を反らして言う。まだ二十歳そこそこで、あどけなさの残る顔立ちだ。
田定は太原に来ていたが、実は田虎には黙ったまま出てきていたのだ。
跪く太原守将の張雄は、その態度とは裏腹に心中で唾を吐いていた。
驚かせるんじゃないぞ、まったく。まあ適当にもてなして、田虎に良い報告をしてもらうとしよう。
その胸中を知らぬ田定が言う。
「そう畏まるな。立ってくれ」
では、と張雄が応じる。すると張雄の頭が、田定の遥か上になった。張雄は望楼塔と呼ばれるほどの長身であった。
さすがに田定の顔が曇った。
「それで太子、ここへは何をなさりに来たので」
「あ、ああ。そうだ、ちょっと視察にな」
「太子は城でじっとしていられないと見えますな。正直言えば、退屈だったのでしょう」
「ま、まあ、そうとも言えるかな。親父は戦に出してくれないし、俺を見くびっているのさ。そう思わないか」
「そんな事ありませんよ。田虎さまは太子に何かあってはとお考えなのです」
そうかな、と鼻をこする田定。
張雄は口の端を歪めるが、田定には見えない。そして張雄が部下を呼んだ。統制の徐岳と項忠である。
「こ奴らが面白いところへ案内します。申し訳ありませんが、わしは仕事が溜まってまして。ここで失礼させていただきます」
田定が二人に連れられて行くと、張雄は解放されたように大きく伸びをした。長身がさらに大きく見える。
「おい、酒と肴を用意しておけ。夕刻には帰ってくるだろう。ああ、わしの部屋にも酒を持って来い」
仕事など、無い。田定の相手をするのが面倒なだけだ。張雄は部下にそう命じると、自室へと戻った。
石室山の石切場。昼の休憩の合図があった。
童威が顔を上げ、汗を拭いていると、童猛が駆けて来るところだった。
「どうした、猛」
童猛は作業場の向こうを指差した。次の瞬間、作業場の外から、大勢の人間がなだれ込んできた。
「おいおい、何だよあいつら。勝手に入ってくるんじゃないぞ」
童威が制止しようと向かった。が、違和感に足を止めた。
乱入者たちはいずれも農夫ばかりで、女子どもまでいる。そしてどの顔も何かに怯えているような、恐怖にひきつっていた。
「何ごとだ。何だあの連中は。止めるんだ、童威」
この騒ぎに、李俊が駆けつけた。その間にも、群衆は続々となだれ込んでくる。
陶宗旺の手下たちも協力し、その群集たちを一か所に集め、とりあえずは落ち着かせることにした。
喧騒がおさまる頃、初老の男が進み出て頭を下げた。彼らは太原周辺の村に住む者で、そこから逃げてきたのだという。男は李太公といった。
「これまでも何度か来てはいたんです。その都度、貢物をして難を避けていたのですが」
太公の顔が話すごとに暗く沈んでゆく。李俊らは黙ってそれを聞いた。
数年前から田虎が河北で勢力を拡大していた。太原城も抵抗したが敗れ、田虎の支配下に置かれた。村には税を納めるように通達が来た。不当な要求だったが、それで皆の安全が保たれるのならば、と李太公は応じた。
だが最近、太原に駐留する者が変わった。見上げるほどの大男、張雄とその二人の配下、徐岳と項忠が主だった者だ。この三人が最悪であった。
「そいつらには人の心が通っておりません」
少しでも逆らおうとする者、果ては気に食わない者を躊躇なく殺してしまう。さらに若い女を城へ攫っていき、戻ったものはいないという。
そして今日、村が前触れもなく襲われた。
徐岳と項忠が見知らぬ若い男を連れていた。彼らが一軍を率い、村人たちに矢を射かけたのだ。
「狩りと称して、わしらを追いたてたのです」
李太公の目から涙があふれ出た。
「虫唾が走る連中だぜ」
童威が唾を吐き、毒づいた。
まったくだ、と李俊が立ち上がった。腰に佩いた刀を確かめる。
そこへ張横が現れた。
「そこら辺でうろちょろしてた怪しい奴を捕まえたぜ」
後ろ手に縛られた男が李俊の前に放り出された。
男はふてぶてしい態度であった。そして自分から、徐岳の手下だと言った。村人たちを探しに先駆けてきたのだという。
「すぐに親分たちがここに来るぞ。そしてら皆殺しだぜ。へっへっへ」
張横が男の後ろに立った。手には小刀。それを首筋に当て、素早く横に引いた。
「面白そうな時に来たぜ。阮の兄弟たちがいなかったことを悔しがるだろうな」
ひっ、と村人たちの悲鳴が聞こえた。