108 outlaws
招安
一
陽が射せば暖かくなる日も多くなってきた。
宋太公と安道全が茶を飲んでいる。
二人は長い付き合いであった。宋江や宋清が生まれた頃からである。
「ついに招安か。どうされるのです、太公は」
「わしは戻るよ。生まれた地に骨を埋めるとするさ。それより、すまなかったな。お主まで巻き込んでしまう事になろうとは」
「はは、今となっては仕方ない事さ。まあわしは助けられたとも思っておるけどな」
ほう、と宋太公が安道全を見る。
「妻を亡くし、酒に溺れておった。あのまま死んでも構わないと思っておった。それを、無理矢理で無茶苦茶だったが、もう一度引っ張り上げてくれたのだ」
「確かに前より活き活きしとるのではないか」
「よく言うわ」
「まだしばらく、先生にはお世話になりそうですな」
「こんな、戦ばかりしておる連中、わしが面倒みなければどうしようもあるまい」
宋太公が嬉しそうに目を細めた。そして静かに言った。
「不肖の息子を頼みます、先生」
安道全も目を細めた。
その夜、身内だけで別れの席が催された。
扈三娘が畏まって言う。
「寂しくなります。どうかお元気で」
「この歳で娘ができてうれしかったよ。婿どのも達者でな」
「ああ、爺さんも達者でな」
王英の口ぶりに扈三娘が怒りそうになるが、宋太公は明るく笑った。
「ははは、良い良い。婿どのの言う通り、わしは年寄りだ。これからは若い者が主役だ」
「そんな事を言わないでください。まだお元気でいてもらわねば」
宋江も寂しさを隠そうともしない。
宋太公が眉根を寄せた。
「江よ、お主が頼るのは、ここにいる百人からの頭領たちだ。もうわしの役目は終わったのだよ」
はい、と宋江は父の手を取り、大粒の涙を流した。
宴も終わり、皆それぞれの家へと帰ってゆく中、宋清だけがまだ残っていた。下男と一緒に後片付けをしている。
宋太公も呆れたような顔をした。
「やはりお前は梁山泊に残るのか」
「すみません、父上。もうしばらく、兄の側におります」
宋清には妻も子もある。梁山泊に来たのは、成り行きに過ぎない。罪が許された今、宋(そう)家(か)村(そん)に戻るものと思っていた。
「お前はおとなしいが、江よりも頑ななところがあるからな」
本来村を治めるべき宋江が役人になってしまったため、宋清が代わりとなった。むしろ不満も言わず、よくやってくれたものだ。だから少しくらい、好きにさせてもよかろう。
「父さんに似たのですよ。私も兄さんも」
特に宋清は父の背をいつも見て育った。
時に腹黒い役人を相手取り、また厳しい災害にも父は決して泣き言など言わずに、村と村人を守ってきたのだ。
宋太公の瞳が潤んだ。
「すぐに戻ります。その間」
「妻と子を、だろう。わかっておるさ。心配するな。孫の面倒を見られるなど、どれほど幸せなものか、いずれお前も分かるぞ」
「ありがとうございます」
「さて、年寄りはもう寝るとするかな」
土産を持たせ、宋清を帰らせた。
宋家村で生まれ、当然のように宋家村で死んでゆくものと思っていた。
人生の終わり間際に、得難い経験をした。
山賊になり、娘までできたのだ。
窓から梁山泊を見渡す。
楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
どこかで酒盛りでもしているのだろう。
杜遷、朱貴、宋万が卓を囲んでいた。朱貴の店である。
湖の上に張り出した部屋だ。杜遷が感慨深げに窓から梁山泊に目をやっている。
「想像もつかなかったな。梁山泊がここまでになるなんて」
そう言って、ちびりと酒を口にする。
王倫(おうりん)が頭領だった頃から、ということだ。
宋万が大きく頷き、酒を干す。
「まったくだぜ。晁蓋どのが来てからどんどん勢力を大きくしちまったもんな。その後の宋江どのもだ。官軍を追っ払っちまって、ついに招安まで認めさせちまった。王倫とは」
と言って、朱貴の視線に気付いた。
「あ、ええと、すまねえ杜遷。そういうつもりじゃ」
王倫と杜遷は昔なじみだった。二人で、梁山泊の基礎を築き上げたと言っても良いのだ。
「いや、宋万の言う通りだ。確かに王倫では、ここまで大きくはならなかっただろう」
そう言ったものの、杜遷が少し寂しげな目をしたのを見て、宋万は恥じた。
朱貴が奥から酒甕を持ってきた。封を切り、蓋を開けると芳醇な香りが広がった。
「富の新しい酒でな。まだ誰も飲んだ事のないものだ」
「そいつは良い。そうだ、杜遷が先に飲んでくれよ」
「良いのか、本当に」
朱貴がこくりと頷き、杯に酒を満たす。
口元に運んだだけで、先ほどの香りが鼻をくすぐる。
くい、と一気に飲み干す。
飲んだ瞬間、喉が熱くなるような感じだった。だがすぐに口中に甘みと香りが広がる。
「こいつはたまらんな。お主と知り合いで、これほど良かったことはないわい、朱貴よ」
「どの口が言ってるんだ」
大きな笑い声が店にこだました。
「お邪魔するよ」
入ってきたのは江忠と、そして柴進だった。
「珍しい方がいらしたものだ」
「前来た時から、ちょっと間が空いちまったからな」
「お前じゃない、江忠」
朱貴が柴進を見ている。
「私だって酒ぐらい飲みに来ますよ」
おや、と柴進が奥にいる杜遷らに気付いた。
「よければご一緒しても構わないかね」
杜遷が立ち上がり、喜んで招き入れた。
柴進が酒を口にし、目を見開いた。
上等な酒を飲み飽きているであろう柴進が褒めるのを聴き、朱貴が満足そうな顔をしていた。
ひとしきり朱富の酒を楽しむと、柴進は次に江忠のことを褒めだした。
杜遷や朱貴と同じくらい古参である江忠は、当時から兵站の担当であった。いまは糧秣担当となっている李応、そして次に柴進に輜重搬送について指導したのだ。
「いやあ、そんなことありませんよ。でも柴進さまがそう言うなら、そうなんでしょうな」
と江忠は胸を反らせて高笑いする。
宋万が苦笑しながら忠告した。
「こいつ酒癖が悪いんですよ。あんまり調子に乗らせないでください」
「なんだとぉ、俺のどこが酒癖が悪いってんでぇ」
朱貴と杜遷も、はじまった、という顔をした。
だが柴進はくすくすと笑って、江忠に酌をした。
高唐州から救出されたが、丹書鉄券の効力がすでに無いに等しいという事を知った。柴進の落胆ぶりはどれほどだっただろうか。
だが梁山泊で役割を見つけた。およそ物など自分で運んだ事のない柴進が、糧秣担当である。
落草したとはいえ、元は大富豪で由緒正しい血筋の柴進である。誰もが、現場での職務などできるものかと頭から決めつけていた節がある。そんな中、江忠だけは決しておもねる事もなく却って厳しく、しかし熱心に仕事を叩きこんだのだ。
それが柴進にとっては救いだったのだろう。
江忠は酒が進むにつれて饒舌になってきたようだ。聞いてもいないのに、あの時の戦は、あの時は、と喋り続けている。
そうだ、と江忠が柴進に向かって言った。
「あれをみんなに見せてやってくれませんか」
「そんな見せるほどの物では」
と断る柴進だったが、江忠はしつこく言い募る。
仕方ありませんねと、柴進が懐からあるものを取り出した。
待ってました、と江忠が手を叩き、杜遷が覗き込む。
「それは」
「以前、東京開封府に忍び込んだ際に、拝借してきたのです」
山東宋江、と書かれた紙だった。睿思殿の衝立に書かれていたものだ。
梁山泊を賊とみなされていた事が悔しくて、咄嗟に切り取ってしまった。もちろんその後は大変な騒ぎになり、柴進も後悔したものだ。だが今では丹書鉄券の代わりに、それを持ち歩くようになっていたのだ。
その時の様子を話して聞かせる。
「じゃあ、柴進どのが切り取ったのは、梁山泊が賊から外れた予言だったって訳ですね」
宋万が合点したように手を叩いた。
すると江忠が、飛びつくように割り込んできた。
「おお、宋万。その通りだ。たまにはいい事言うじゃあねぇかよ。まさしく柴進さまの予言だ。梁山泊が官軍に勝利したのも、柴進さまさまって訳だ。わかるか」
「わかった、わかった。そろそろ帰んな。飲み過ぎだぜ」
なんだとぉ、という江忠だったが、柴進がそれをなだめる。
「宋万の言う通りです。帰りますよ、江忠。また来るとしましょう」
「へへへ、柴進さまに言われちゃ、従うしかねぇ。おい、お前ら。また来るぞ」
江忠は千鳥足で先に出て行ってしまった。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
柴進が困った顔で、だが嬉しそうに謝る。
朱貴は却って恐縮してしまう。
「いやいや、柴進どののせいではありませんよ。昔っからああいう奴なのは知ってるんで」
「でも、とても真面目で良い人です。わたしは好きですよ」
「ありがとうございます。これからも良くしてやってください」
朱貴も杜遷も嬉しそうに笑った。
柴進も店を出たが、江忠の姿が見えない。
遠くの方から江忠の歌う声が聞こえてきた。
柴進は懐の紙に手を当てていた。
衝立に描かれていた他の名を思い出す。
河北の田虎、淮西の王慶、江南の方臘。
梁山泊の向かう先に、必ず立ちはだかるであろう存在だ。
祝家荘のように、曾頭市のように、そして高唐州のように。
招安の先には、考えていたような平穏が待っているとは限らないと、柴進は思った。