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玄女

 夢を見た。

 しかし、はっきりとは覚えていなかった。

 誰かに語りかけられていたような気もする。

 宋江は寝台から起き上がり、着替えると部屋を出た。

 ちょうど日が昇ってきたところで、宋江は目を細めた。

 さらに遠くを見ると、広大な梁山湖に日の光が煌(きらめ)いていた。

 宋江は改めて思う。

 もう自分は、梁山泊の宋江になったのだ。

 見降ろすと家々から煙がのぼっている。朝食の用意をしているのだろう。

 宋江はふと故郷の鄆城にある宋家村を思い出した。

 父と約束をしていた。刑期を全うし、無事に戻って来ると。

 しかしそれは果たす事ができなかった。

 壁に書いた詩が元で命を落とすところだった。

 晁蓋らに救われ、梁山泊へと来ることになった。

 頑なに誘いを断ったはずなのに、結局は入山する事になってしまった。

 すべては己が引き起こした事だ。

 しかし、及時雨になる。そう決めた。

 父は、宋清は達者だろうか。

 そう思いながら宋江は、聚義庁へと足を向けた。

 

 大きな音を立てて、湖面に人の頭が飛び出してきた。

 その後に続き、もうひとつ。またひとつ、と顔が現れてくる。

「まだ、潜ってやがるのかよ」

 空気を大きく吸い込みながら、阮小五が喘ぐように言った。

「だから言っただろう。潜水であいつに勝負しようだなんて無理なのさ」

 濡れた髪を撫でつけながら童威が呆れたように言った。

「やってみなきゃ、分からねぇだろうが」

 阮小五が吠え、童猛も困ったような顔をしていた。

 ぶはぁ、と阮小七が上がってきた。

「すげぇなぁ、あの張順って奴。上がって来る時に見たけど、まだ平気そうな顔してたぜ」

 阮小七は感心したように笑った。

 その側に、ゆっくりと張順が顔を出した。

 まるで水中に階段でもあるかのような動きだった。

「いやあ、あんたらも大したもんだ。さすがは梁山泊、ってところかな」

 張順は素直に褒めているのだが、阮小五はどうも面白くない様子で、ふんと鼻を鳴らしていた。

「でも」

 と阮小七が何かを掲げた。

「俺はお土産(みやげ)付きだぜ」

 それは大きな鯉だった。

「そんな物まで獲ってたのかい。そいつは俺の負けだ」

 潜っている間に動く事はただでさえ息を失ってしまうというのに、この阮小七は魚を獲っていたというのだ。

 張順は呆れるを通り越して、素直に負けを認めた。

 渋い顔をしていた阮小五も、さすがは俺の弟だ、とやっと明るい顔をした。

 岸辺の亭(あずまや)でその様子を見ていた阮小二が、ふふっと微笑んでいた。

「面白い奴らだな。あんたも、だが」

 李俊が阮小二に酒を注ぎながら、同じく微笑んでいた。

「ところで聞いたかい、李俊」

 阮小二は一拍間(ま)を開けて、確かめるように聞いた。

「水軍、だってな」

 李俊は黙って酒を飲んでいる。目だけは小二を見据えていた。

 先刻、阮小二が聚義庁に呼ばれた。そこで呉用にそう告げられたのだ。

 江州から宋江および戴宗を救い出し、それに協力した多くの者たちが梁山泊へ入山した。

 南船北馬、という言葉があるくらいである。江南地方の、李俊や童兄弟、張兄弟といった水に慣れ親しんだ者たちが多く加入した事で可能になった事だ。

 はからずもこの梁山泊は水の要塞でもある。

 官軍を相手どるのに、この入り組んだ水路と広大な湖は非常に強力な武器となっていた。黄安率いる官軍を大敗せしめたのも、このおかげだと言って良い。

「本当に、国と戦をするつもりなのだろうか、晁蓋どのは」

「さあね。だが、ここが大きくなればなるほど、その可能性も大きくなるだろうがね」

 李俊の言葉に阮小二は、うむと唸った。

「そこでだ。水軍ができるのなら、俺はあんたにそれを率いて欲しいと思っているのだ、李俊」

「俺はここへ来たばかりだぜ。連中もあんたの言う事の方が聞くさ」

 李俊は、湖面ではしゃぐ一同を見つめていた。

「闇塩を扱っていたんだってな」

 その言葉で李俊は目を阮小二に戻した。

「俺は、昔ちょっと腕を慣らしていただけの一介の漁師に過ぎん。だが、戦には戦をしてきた者の経験が必要だ」

 だからあんたが水軍を率いてくれ、阮小二はそう言って杯を空けた。

 李俊は、それに答えず再び湖を見つめた。

 張横の操る小舟が、阮小五らの元へ近づいてきた。舟には李立も乗っていた。

 李立が何事かを呟くと、阮小七が歓声を上げた。

 獲れたての鯉で美味い物でも作ってやろう。そんな事を言ったに違いない。

 阮小二と李俊は目を合わせ、微笑んでいた。

 湖の彼方で、水鳥が飛び立ったようだ。

 

 聚義庁には晁蓋と呉用がいた。

 梁山泊の新たな編成について、話しあっているようだった。

 江州から戻るにあたり、大勢の者たちを梁山泊に連れてきた。呉用への良い土産ができた、などと晁蓋は言っていた。これを受け、呉用は梁山泊のさらなる拡大を視野に入れたようだった。

 そのひとつが水軍だった。

 晁蓋は、国との戦を想定していると明言していた。呉用も軍師として参謀として、その目的を補佐するのだろう。

 宋江は、国を救いたいと考えていた。

 江州で牢城につながれていた時、命の際にあってそう思い至ったのだ。

 晁蓋の意向とは異なるこの考えを、宋江はまだ少しの人間にしか語っていない。梁山泊の頭領は晁蓋であり、彼の意志が梁山泊の意志でもあるからだ。

「本当に良いお土産をいただきました」

 呉用はそう笑った。

 さらに、かねてからの懸案に療養所があった。

 戦となり負傷者が出ても、今のままではそれに対応できないのだ。戦だけではなく、平時に病にかかる事もある。

 これは当面の間、薛永に協力してもらい薬草を育てる事にしたという。もとは生薬商であった呂方も協力しているという。

 しかしいずれにせよ、本当の医者が必要になる事を、呉用は強調していた。

 その薛永の弟子でもあるという、侯健にも大役が与えられた。もちろんその腕を活かして、梁山泊に生活する人々の衣服、また兵士たちの軍服などの製作や修繕である。これまでは奪ってくるか、めいめいがそれを行っていたのだ。

 侯健は張り切った様子で、腕の良さそうな者たちを集めて工房のような所を作ってほしい、と提案してきたという。そして早々に仕立てた最初の一着を、晁蓋に贈ってきた。

 晁蓋は照れくさそうに両手を広げてみせた。

 なるほど、宋江がかつて見た役人が着ていた物のどれよりも上等で、しかも晁蓋の雰囲気にぴったりとする物だった。

「私たち全員の分も、間もなくできるそうですよ」

 呉用が羽扇を揺らして言った。

 一通りの説明を聞き終え、宋江がやにわに切り出した。

「父と弟を、鄆城に迎えに行きたいと思うのです」

 宋江は決然とそう言い放った。

 晁蓋も呉用も、一瞬何を言われたのか理解できなかった。

 慌てて晁蓋が、大きな声を出した。

「何を言っている、宋江。やっとお前を取り戻したというのに、そんな事許すわけにはいかんだろうが」

「そうです。誰かを迎えに行かせましょう」

 分かっている。江州にまで救出に来てくれた事は、本当に感謝している。しかし父と弟には、自分が直接話したいのだ。でなければ、宋清はともかく、父は梁山泊に来る事を納得はするまい。

「ううむ、気持ちは分からんでもないが。なあ、軍師どの」

「いえ、駄目です。宋江どのを行かせる事はできません。どうかご理解いただきたい」

 事情を聞いた晁蓋は同情の気持ちを見せたが、呉用はぴしゃりとそれを否定した。

 目を見ると、それを覆すのは無理なように思えた。

 宋江が仕方なく聚義庁を後にしようとした時、そこへ誰かが入ってきた。

 一清道人とも呼ばれる白髪(はくはつ)の道士、公孫勝だった。

「丁度良い所に、お三人がいてくれて助かりました。内密にお話ししたい事があります」

 公孫勝がゆっくりと語り出した。

 三人はにわかには信じられぬ様子で、それをじっと聞いていた。

 

 雲が多い夜だった。

 月は必死に顔を出そうとするのだが、すぐに雲がそれを遮ってしまう。

 時々照らされる月明かりを避けるように、ひとつの人影が動いていた。家の壁に隠れ、少し様子を見ては次の壁へと小走りで移動してゆく。人影はそうやって人目を避け、とある場所に辿りついた。

 金沙灘である。

 目の前には湖が広がっており、隠れられそうな場所はもう無かった。

 ふう、と一息つき、影は頭巾を少し上げた。

 舫(もや)ってある舟に目をやり、ゆっくりと近づいてゆく。

「宋江どの、そんな格好で何をしておいでですか」

 びくりと影が縮こまった。

 ゆっくりとその人影、宋江が振り返った。

 ほのかな月影に照らされた声の主が近づいてきた。雲を突く金剛の名を持つ、宋万(そうまん)であった。雲に見え隠れする月を背負い、本当に頭が雲についているようだと、宋江は思ってしまった。

「宋万か。いや、ちょっと朱貴の店にでも行ってみようかと思ってな」

 明らかにいぶかしむ宋万。

「またすごい顔ぶれが増え、この梁山泊もますます勢い付いてきましたね、宋江どの」

「む、うむ。そうだな」

 宋万の言葉の意味を捉えかね、曖昧に返事をする宋江。

「たまたま、あいつらよりも先に梁山泊にいたから、頭目に数えられているだけで、俺なんか足元にも及ばねぇ奴らばっかりですよ」

 宋江はそれに答えず、口を固く結んだ。

 宋万は続けた。その目は湖の方を見ていた。

「悔しいけど、仕方無いとは思います。だけど、それを察したのかな。杜遷が、俺に上の席次を譲ってくれたんです。自分は年だし、若い者が活躍しなけりゃならない、とか言ってね」

 杜遷の話は宋江も耳にしていた。

 王倫とともにこの梁山泊を築き上げた最古参の頭目で、部下たちからの信頼も厚い男だと。

 宋万が鼻をすすった。暗がりで見えないが、泣いていたのかもしれない。

「行くんですよね、鄆城へ」

 どきりと、宋江は驚いた。

 昼間、聚義庁で宋家村に父と弟を迎えに行きたいと告げたが、許可が下りなかった。しかし思い立ったら引く訳にはいかず、こうして夜陰に乗じて独りで行こうとしていたのだ。宋万にもその話が届いていたのだろうか。

 宋万は舫いを解き始めた。

「責任は俺に取らせてください。その代わり、無事に帰ってきてくださいよ」

 宋万を船頭として、舟がゆっくりと静かに湖を滑ってゆく。

 宋江は空を見上げた。

 月はその姿を、雲に隠してしまったようだった。

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