top of page

海棠

 鞭の音が響いている。

 二発、三発、やがてその数は二十を越えた。

 鞭を手にした祝彪が、縛り付けられ動けない黄信を前にしていた。黄信の上半身は裂け、地面にまで血が滴(したた)り落ちていた。

「しぶとい野郎だ、まったく」

 しかし息を切らせているのは祝彪の方だった。

 黄信は不敵にも笑みを浮かべてさえいた。

「もうやめておけ。手に力が入らなくなっているぞ」

「ふざけるな」

 祝彪はもう一度、黄信を鞭打った。返り血が祝彪の靴を汚した。くそ、と毒づき唾を吐いた。これではどちらが拷問をしているのか分からないではないか。どうして平気でいられるのだ。梁山泊の連中は一体、どうなっているのだ。

 祝彪は呼吸を整え、その部屋を見渡した。

 黄信と同じように枷をはめられた者が数人いた。祝家荘で捕えられた楊林、そして戦闘で捕えられた王英、秦明、鄧飛だった。その誰もが鞭打たれ、肌を血に濡れさせていた。

「たかが山賊風情が調子に乗りやがって」

「その山賊に苦戦しているのはどこのどいつだい」

 王英がにやにやと笑っている。目元が紫色に腫れあがっていた。

 祝彪は怒りを浮かべ、何も言わずに王英を鞭打った。そしてもう一度打とうと手を上げた時、部屋の外から呼ぶ声がした。

「祝彪さま、扈家からお客さまが見えられてます」

「わかった、今行く。待たせておけ」

 王英はまだにやついていた。

 祝彪は鞭を捨てると、秦明らをもう一度睨みつけ、部屋を出た。

「祝彪」

 部屋を出た所にその客、扈成がいた。待たせておけ、と言ってしまったが聞こえていただろうか。まあ、どうでもよい事だが。扈成の後ろに祝竜と祝虎もいた。

「これはこれは扈成どの、いや義兄上(あにうえ)どうなされました。そんなに急いで」

「どうもこうもあるものか。妹が、梁山泊に捕らわれたのだぞ」

「そうですな、困りましたね。どうしたものか」

 扈成が祝彪の襟を掴み、睨みつけた。

「どうしたもこうしたもあるか。妹は祝彪、お前の許婚なのだぞ。早急に救い出さねば」

 祝彪が扈成の手を払いのけた。普段は穏健なこの男が、これほど取り乱すとは珍しい。それほど妹が、扈三娘(こさんじょう)が大事か。

 祝彪はことさら辛そうな顔をして見せ、扈成に言った。

「分かっておりますとも、義兄上。私だってすぐに助けに飛んで行きたいくらいなのです。しかし先生はそれを許さぬし、父も先生の言葉に従うばかりで」

 祝彪は、うう、と呻き唇を噛みしめた。

「そうか、すまない。私も、あまりの事態に焦ってしまったのだ。許してくれ、祝彪」

「私こそ失礼をいたしました。義兄上の方こそ、扈三娘の事が心配なはずなのに」

「私は私で対策を練ってみる。何か妙案があればすぐにでも伝えてくれ」

 そう告げて扈成は祝家を去った。横で見ていた二人の兄がにやりと笑った。

「お前も役者だな。そう思わんか、祝虎よ」

「まったくだ。扈三娘を救いに飛んで行きたいなどと、思わず噴き出しそうになったぞ」

 祝彪は悪びれずに口元を歪めた。

「やめてくれよ、二人とも。扈三娘の無事を願う気持ちは嘘じゃないぜ。あいつと結婚しなくちゃ扈家荘を俺たちの物にできないからな」

 祝竜と祝虎がげらげらと笑う。

「少しばかり器量が良くて扈家荘の娘じゃなけりゃ、あんなじゃじゃ馬を誰が嫁になど貰いたいものか。俺はもっとおしとやかな女が好みなんだ、これでも我慢してるんだぜ」

 祝彪が笑い、二人の兄も大声で笑った。

「はは、今日のところは俺たちの勝ちだ。酒でも飲むとしようじゃないか、弟たちよ」

 三人の笑い声が座敷牢から遠ざかってゆき、やがて聞こえなくなった。

 王英は笑みを消し、憤怒の表情で部屋の外をにらみ続けていた。

 

 大勢の兵が死んだ。梁山泊も祝家荘、扈家荘も、だ。

 宋江は深いため息をついた。本当に深いため息だった。

 これからもこのような戦いが増えるのだろうか。

「これが戦です、宋江どの」

 林冲が諭すように言い、自分の隊へと戻って行った。夜営の準備に取り掛かるのだろう。

 国を、民を守るという事が、いかに困難な道であるかを、宋江は心に刻み込んだ。晁蓋ならば何を思うのだろう。また呉用ならば。宋江は首を振り、酒をひと口だけ飲んだ。

「扈家荘の扈成さまがお見えになっております」

 宋江は居住まいを正し、扈成を迎え入れた。扈三娘の兄だが、あまり武人の雰囲気はないようだった。

「これは、お初にお目にかかります、扈成どの。手前は梁山泊の宋江と申す者」

「及時雨どのの名は、存じております。その及時雨どのに、お願いがあって参りました」

「宋江と」

 呼んでください。及時雨と呼ばれるのはやはり歯がゆかった。

「では、宋江どの。この度は妹が大変失礼な事をしてしまい、代わって心よりお詫び申し上げます。あれは世間知らずゆえ、自分の武芸を過信してしまう所がありました。何とぞ、お許しいただきたい」

「腕の立つ妹さんですな」

 宋江は扈成にも酒を勧めた。

「安心してください、妹さんは無事です」

 そう言うと、やっと扈成は酒に口をつけた。やはり心配だったのだろう。ほんの少し、表情が緩んだようだった。

 兄貴に手をかけようとしたんだ、とっとと殺してしまいましょう、と喚く李逵(りき)を制し、扈三娘は陣の奥に幽閉していた。見張りの兵には丁重に扱うよう指示してある。

「我々は祝家荘とひと悶着あって、戦をする事になりましたが、あなたがた扈家荘や李家荘(りかそう)とは何の遺恨もありません。しかし先の戦闘で、我が軍の将たちが捕らわれてしまいました。妹さんをお返しするのならば、彼らと引き換えです」

 扈成は神妙な面持ちで言った。

「彼らは祝家荘に運ばれました。どこに捕らわれたかもわからず、私にも取り返す事は難しいでしょう」

 扈成の言っている事は本当だろう。妹の、扈三娘の命が握られているのだ。嘘をついても仕方あるまい。

 ならば、と宋江が提案した。

「今後の戦いに扈家荘は加勢しないと約束してくれますか」

 扈成に否やはなかった。元々、梁山泊と事を構えたくはなかったのだ。扈三娘は己の腕を信じ切っていたが、扈成は違った。妹が自分よりそうであるように、上には上がいる事を重々承知しているのだ。

 圧倒的な強さを誇っていた扈三娘も、梁山泊の将に破れた。しかも気絶させられるなど、圧倒的な力の差がなければできない芸当だ。生きて捕らえるなど、殺すよりも難しいのだから。

 扈成は深々と頭を下げ、宋江の元を辞すると馬に乗った。

 扈三娘の無事は約束させた。そして扈家荘はこれ以上、犠牲を出さずにすむ。これでも扈家荘の長子である。扈家荘を、家族を守るためならば頭でも何でも下げてみせる。

 扈成は丘の上で一度、梁山泊の陣を振りかえると、夜空を仰いだ。

 こんな戦がなければ、いつまでも見ていたいほどの星空だった。

 

 もう朝か。

 かすかに漏れ入る光で、時遷は時の経過を感じていた。

 梁山泊軍と戦い、何人かの将を捕らえたと祝彪が言っていた。そのせいか、自分を痛めつけに来る回数も減ったようだ。

 梁山泊が苦戦している。時遷は思い出していた。祝家店からここへ連行された時に見たあの男。武芸師範を務める欒廷玉と言ったか。時遷にもひと目でその実力が分かった。梁山泊が勝つにはあの男を何とかしなければならないだろう。

 しかし、と時遷は思う。なぜあれほどの男が、この祝家荘などに仕えているのだろうか。

 時遷もこれまで様々な場所に忍び込み、様々な人間を見てきた。こんな者が役人だとは、と思える者が実に多くいた。欒廷玉ほどの男ならば、国に仕えていてもおかしくはなかった。

 ま、俺には関係ない事か。

 時遷はそう思い、もう一度目を閉じた。

 

 欒廷玉は閉じていた目を開けた。

 祝家の三兄弟が部屋に入ってきた。三人とも、特に祝彪が自慢げな顔をしている。

「梁山泊の連中など恐れるに足りませんね、先生。我らの勝ちはすでに決まったようなもの」

「奴ら、慌てて逃げていきましたが、目印の白楊(はこやなぎ)は切っておきました。これで道を知られる心配も無いでしょう」

 祝虎の言葉に、欒廷玉は何も答えなかった。

 祝竜が言う。

「扈家荘の娘が捕らわれましたが、あれは先生の言葉を聞かなかったがため。身から出た錆です。兄の扈成が救出の要請に来ましたが、なに、梁山泊を叩きのめしてから奪い返せば良いだけのこと」

 三人は欒廷玉の言葉を待った。その欒廷玉はしばらく黙っていたが、やっと口を開き、

「明日も戦いは続く。今日はもう遅い、酒もほどほどにして早く休むと良い」

 とだけ言って、自らも部屋を出て行ってしまった。

 祝家の兄弟はその背を睨むような顔をしていた。別に褒められたいとは思っていなかったが、それにしてもあの素っ気ない態度は無いだろう。

 早く寝ろだと。もう子供ではないのだ。

 祝彪は舌打ちをすると、兄ふたリと共にその場を去った。

 明日で梁山泊を打ちのめしてくれる。

 今日は前祝いだ。祝彪が側にいた家人に酒宴の準備を言いつけた。

 

 攻略の要(かなめ)は欒廷玉だ。軍議の場で意見が一致した。

 名の知れた武人には違いないが、林冲もその名は聞き及んではいなかった。

 ともかく祝家荘を破るには、あの欒廷玉を何とかしなければならない。

「なに、心配いりませんよ兄貴。おいらが手下を連れて行って、皆殺しにしてやりますよ」

「わかった、お前は頼もしいな。その時が来たら頼むよ」

 李逵は笑ってそう言い、戴宗が上手くそれをなだめる。

 捕らえた扈三娘は祝家の許婚だというが、祝家からは使者の一人もなかった。扈家荘はこの戦に加担しないという約束をしたが、祝家荘相手に交渉の余地はないようだ。

 なにしろ敵地だ、地の利は向こうにあり、また欒廷玉という人(じん)の利も向こうにあるようだ。軍議は一向に進まなかった。

「軍師どのが到着いたしました」

 宋江は思わず顔を上げた。呉用が来たというのか。呉用は、晁蓋暗殺未遂の件もあり、梁山泊に残る事になっていたはずだが。もしや何か良からぬ事が起きたのか。

 同行した阮三兄弟そして呂方、郭盛を陣に送り、呉用が入って来た。

「突然どうされましたか、軍師どの。晁蓋どのに何かあったのですか」

「いえ、何もありません。劉唐たちに任せておけば、私よりも安全でしょう」

 呉用は、本音かどうか分からないが、そう言って笑った。

「祝家荘に苦戦しているとお聞きして、憚(はばか)りながら参りました」

「そうなのだ。王英や秦明まで捕えられ、欧鵬は大怪我を負った。やはり軍師どのの知恵がなくては。どうやら私では一軍の頭(かしら)は務まらぬようだ」

「兵たちの前で、そのような事は口になさらぬように、宋江どの」

「すまない」

 宋江は素直に詫びた。ただでさえ負けの雰囲気が陣内に漂っている。梁山泊軍を束ねる宋江が、自信のないような事を言ってはさらに士気に影響してしまう。

「地の利も、人の利も祝家荘にあるようです」

 呉用は宋江が考えていた事をそのまま言った。

「しかし、天の利はこちらにあります」

「天の利、だと」

「はい、天の機とでも言いましょうか」

 呉用はいつものように羽扇をくゆらせている。

 宋江は、天の機という言葉に胸を高鳴らせた。

bottom of page