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海棠

 祝彪はごくりと喉を鳴らし、唾を飲んだ。

 梁山泊に勝てる。

 師である欒廷玉の背を見て、祝彪はそう思った。

 普段は口うるさい男だと思っていた。確かに武芸の腕は立つが、戦場(いくさば)に立つ姿を見た事はなかった。どうせそこらに転がっている口だけ達者な武芸者だろう。祝彪は今の今までそう思っていたのだ。

 しかし武装した欒廷玉の強さが、その後ろ姿からでもはっきりと分かった。

 鉄棒、ただそう呼ばれていた。

 渾名にしてはなんの捻りも面白みもないものであった。しかし奇をてらった派手な渾名よりも、それに頼る事のない欒廷玉の確かな強さを雄弁に物語るものであった。

 欒廷玉が手綱を引き、馬を進めた。手にはしっかりと鉄の棒が握られている。

 欧鵬が駆けた。この男は強い。欧鵬は直感していた。だが態勢の整わないうちに一撃でも決める事ができるのならば。欧鵬は槍を握りしめた。

 だが、欒廷玉は戦いを避けた。馬首を横に向け、欧鵬から逃げたのだ。

「待て」

 欧鵬は追った。焦っていたのかもしれない。梁山泊に入り、これといった功績は残せていなかった。黄門山を官軍に破られ、敗走した。そしてこの祝家荘戦で、扈三娘に命を奪われかけた。

 負けてばかりだ。勝ちたい、勝たねばならない。

 欒廷玉がちらりと振り返った。欧鵬はその目を見た。ぞくりと背筋が寒くなった。

 追ったのは間違いだった、とその時悟った。

 黒い塊が欧鵬の腹に命中した。欒廷玉が投げた鉄槌が、欧鵬の腹にめり込んでいた。

 口から血を吐きながら欧鵬は馬から落ちた。そこに祝家荘の兵たちが絡め縄を手に殺到する。

「近寄るんじゃねぇ」

 鄧飛が鉄鏈を振り回し、兵たちを薙ぎ払った。兵たちはそれ以上近づく事ができず、じりじりと後退してゆく。

 欧鵬が馬に乗せられ運ばれてゆく。宋江が手下に命じて救いに行かせたのだ。それを見て鄧飛は欒廷玉に向かって駆け始めた。

 その欒廷玉は鄧飛には目もくれず、秦明に向かって馬を走らせた。

「望むところだ」

 秦明は狼牙棒で祝竜を弾き飛ばすと欒廷玉を迎え討つ。

 唸りを上げ、頭上から狼牙棒が欒廷玉に噛みつこうとした。欒廷玉は焦ることなく横向きにした鉄棒でそれを受けた。欒廷玉の腕がかなり沈んだ。欒廷玉の眉がぴくりと動いた。

 沈んだ反動を活かし狼牙棒を跳ね除けると、欒廷玉は鉄棒を連続で突いた。

 秦明は、おおと吠えながらも巧みに狼牙棒の柄で鉄棒をすべて凌いだ。欒廷玉は棒を引き、馬を少し下がらせると距離を空けた。

「賊のくせに大したものだ」

 狼牙棒は先端に重量があり、薙いだり払ったりする動作には向いていた。しかしそれを補って余りある膂力で自在に扱うとは。

 青州軍統制に狼牙棒の手練がいたが、山賊と共謀し叛乱を企て、ついには梁山泊に落ち延びたと聞いた。こ奴はおそらくその統制、霹靂火の秦明だろう。なるほど聞きしに勝る勇猛ぶりだ。

「祝家荘にあのような男がいたとは。敵にしておくには惜しい男ですね」

 両者の戦いを見ていた宋江が誰に言うでもなくそう呟いた。

「宋江どの、そんな悠長なこと言ってられませんぜ」

 宋江の側に戻った鄧飛が、そう言って鉄鏈をじゃらりと鳴らした。

 再び二騎がぶつかった。

 むう、と宋江は唸っていた。青州で見た時よりも、秦明の技は格段に上がっていたのだ。梁山泊に入って林冲と出会い、刺激を受けたのだろう。

 狼牙棒が風を切る音はまさに狼の遠吠えの如く、獲物である欒廷玉を執拗に追い詰めてゆく。だが欒廷玉も眉をしかめつつ、冷静にそれらを捌いてゆく。一瞬の隙を縫い、鉄棒が秦明の顔面を襲った。なんとか首を曲げ、秦明はそれをかわした。

 欒廷玉は力を込め、鉄棒を止めた。そして瞬時に横に払い、秦明の側頭部を打った。

 宋江と鄧飛が叫んだ。秦明はよろけながらも体勢を整え、何とか落馬は逃れた。秦明はこめかみのあたりに血をにじませながらも笑っていた。

「貴様」

 欒廷玉は追撃できなかった。着込んだ鎧の胸元が狼の牙によって抉(えぐ)られていた。この鎧がなければ、と欒廷玉は安堵の息を漏らした。

 三度目の激突。馬が並走しながらの打ち合いになった。独竜岡を縦横に駆け、秦明と欒廷玉が互いに退かぬ戦いを演じている。

 二十合ほど打ち合った時、ふいに欒廷玉の手が乱れた。勝機と見た秦明は必殺の一撃を、欒廷玉の背中に向けて放った。欒廷玉は馬の速度を上げそれをかわしつつ、秦明の前に出た。

 そのまま欒廷玉は腰のあたりに手をやった。欧鵬に放った鉄槌か。秦明は身構えたが、欒廷玉の手から放たれたものは違った。

 それは布だった。欒廷玉の腰に巻いてあった布だ。それはふわりと、秦明の馬の顔にまとわりついた。突如、視界を奪われた馬は混乱し、速度を上げあらぬ方向へ駆けだした。

「待て、止まるのだ」

 秦明は懸命に手綱を引くが、馬は言う事を聞かなかった。

 秦明は深い草むらへと突っ込んでしまった。そこで馬が勢いよく転んだ。馬から放り出された秦明は狼牙棒を手放し、身を守るようにして地面を転がった。

 足元に縄が張ってあるのが見えた。それで馬の足がとられたのだ。

 体勢を整え、立ち上がろうとした秦明は、鄧飛がこちらに駆けてくるのを見た。自分を救出しようとしているのだろう。

「来るな、鄧飛」

 秦明が叫ぶと同時に草むらから十数人の伏兵が飛び出し、手にした撓鈎を一斉に伸ばした。

 狼牙棒は離れた所に落ちていた。間に合わない。秦明は素手で何本かを凌いだが、やがて抵抗むなしく取り押さえられてしまった。

 鄧飛は秦明の声で、縄に気づいた。草むらの手前で馬を引き返させようとしたものの、無数に飛び出してきた撓鈎によって絡め取られてしまった。。

 秦明と鄧飛の怒号が草むらから響き、宋江の頬に汗が伝った。

「何という男だ。秦明を手玉に取るとは」

「宋江どの、ここは退きましょう」

 扈三娘との戦いから離脱した馬麟が駆けながら叫んだ。欧鵬が負傷し、王英と鄧飛、秦明までもが捕らわれた。退くしかあるまい。

「逃がすか、梁山泊め」

 祝竜、扈三娘そして欒廷玉が宋江を追って来る。

 馬麟が血路を切り開き、何とか南へと逃げてゆく。しかし周りは祝家荘と扈家荘の兵たちで埋め尽くされていた。

「万事休すか」

 手綱を強く握り、宋江は唇を強く噛みしめた。

 だがその時、宋江らを包囲する敵兵たちの後方の様子が変わった。敵兵が騒ぎ、喚いている。馬麟が目を凝らし、微笑んだ。

「援軍が来ました、宋江どの」

 南から穆弘の軍が敵を蹴散らしてこちらへ進んでくる。没遮攔の名の通り、誰も穆弘を止める事などできなかった。そして東南に見えるのは楊雄と石秀の隊だ。彼らも祝家荘に恨みを晴らさん勢いで、兵をなぎ倒している。

「宋江どの」

 馬麟が叫んだ。援軍の出現に油断した。

 ふいに飛び出してきた一騎に気が付かなかった。馬上の兵が宋江に刀を振り下ろした。

 宋江は、まるで時が緩やかになったかのように感じた。振り下ろされる刀がゆっくりに見えた。

 お終いだ、と宋江は思った。

 次の瞬間、時の流れは元に戻り、敵兵は宋江と反対の方向にのけぞって落馬した。

 咄嗟に宋江は振り返った。

 遠くに、弓をつがえ爽やかな笑顔の花栄が見えた。

 宋江を襲った兵ののど笛に深々と矢が突き刺さっていた。

 宋江は幼き日の、兎狩りを思い出していた。あの時、突如現れた猪から花栄が助けてくれたのだ。

「花栄」

 宋江はそう叫ぶと、思わず目頭が熱くなった。

 

「ちまちまとうるさい奴らだ」

 祝家荘の表門で戴宗と白勝が毒づいていた。

 一瞬、守備兵が手薄になった隙を見計らい、李俊と張横、張順兄弟が堀を渡りかけた。しかし将らしき者が現れ、李俊らに矢を浴びせかけてきたのだ。

「小うるさい梁山泊の蠅を追い払え」

 祝虎は兵たちに命じながら歯噛みしていた。

 欒廷玉は出陣する際に祝虎に言った。おそらく表門が手薄になっている、お前が行って守備してくるのだ、と。

 その言を祝虎は拒否しようとした。目の前で兄の祝竜が戦っているのだ、ここを動く訳にはいかない。しかも祝彪ではなく、俺に行けというのか。

 しかし祝虎は言えなかった。それ以上何も言わず城門を下りてゆく欒廷玉の放つ気が、それをさせなかった。仕方なく祝虎は欒廷玉に従う事にした。そしてその言葉が正しかった事に否応なしに気付かされたのだ。

 間一髪のところで張順が堀から脱した。張横は腿に矢をかすらせたようだ。

「くそ、もう少しだったのに」

「構うな、一旦退け、張横」

 楯を持った手下たちに守らせながら、李俊らは距離を取った。戴宗と白勝も合流してきた。

「首尾はどうだい」

 白勝が覗き込むように李俊に尋ねた。李俊は表門の城壁の上に、顎をしゃくってみせた。

「見な。裏から慌ててきたようだぜ」

 祝虎が檄を飛ばし、兵たちに命じている。しかしすでに矢が届く位置に李俊らはいなかった。

 陽動だった。裏門で宋江が劣勢だと報告があり、李俊がとった作戦だった。

 堀から門を狙う事でこちらに兵が割かれれば、裏の兵力を少しでも削ぐことができる。またそうならなければ、そのまま門を奪ってしまえば良いのだ。どちらにせよ、こちらに利があった。

「今ごろあの二人は、裏門で暴れてるだろうぜ」

 そして楊雄と石秀を宋江の援護に向かわせたのだ。後続隊にも伝令を走らせ、そこから穆弘と花栄が向かったという訳だ。

 城門から降る矢の数が減った。

 李俊はそれを見て、にやりとしていた。

 戴宗は噂に聞いていた混江竜の、力の一端を垣間見た気がした。

 

 扈三娘を狙った刃が槍に阻まれた。

 扈三娘は咄嗟に槍の主を見た。祝彪だった。

 祝彪は刀を持った梁山泊の兵を貫くと、馬上で胸を反らせた。

「危ないところだったな。俺の後ろにいると良い」

 微笑んだ祝彪は、扈三娘が下がるより先に、馬を前に出した。

 扈三娘は眉間に皺を寄せると馬に鞭をくれ、駆けさせた。

「今のは自分でなんとかできました。あなたの助けは、借りません」

「扈三娘」

 祝彪の制止も聞かず、扈三娘は宋江に向かって馬を走らせた。

「こっちだ、宋江」

 宋江隊は花栄の方向、村の出口に向かって一散に駆けだした。なおも扈三娘は追おうとするが、欒廷玉が叫んだ。

「追うでない。充分に成果は上げた。戻るのだ」

 扈三娘は欒廷玉を振り返った。

「あなたは祝家荘に雇われている身。あなたの指図を受ける筋はありません」

 はっ、と叫び扈三娘は速度を上げ、宋江を追った。

 まとわりつく梁山泊兵を薙ぎ払いながら、扈三娘は駆けた。逃げる宋江は驚いた。まさか単騎で追ってくるとは。

 馬麟が殿(しんがり)に立ち、扈三娘を迎え討つ。しかし扈三娘は馬麟を避け、なおも宋江を追う。

 穆弘、楊雄、石秀も止めようとするが、扈三娘の乗馬の腕前も一流だった。狙いはあくまでも宋江だった。穆弘らの攻撃をすり抜け、宋江の目の前にたどり着いた。 

 伏せるようにしていた扈三娘が上体を起こし、刀を閃かせた。

「待ちやがれ、そこの女。おいらの兄貴に手を出すんじゃねぇ」

 扈三娘は思わず手を止めてしまった。坂の上から二本の斧を握った、黒い大男が走ってくるのが見えた。後には七十人ほどの兵を従えていた。

 あの男は危険だ。扈三娘はそう直感した。

 もう少しだったのに。扈三娘は手綱を引き、方向を転じた。

 待てえ、と李逵はそれを追うが、相手は馬だ。追いつけるはずもなかった。

 扈三娘は馬を駆りながら、欒廷玉の言葉を思い出していた。

 追うな、と言っていた。しかし宋江を仕留める絶好の機だったのだ。それをみすみす逃せというのか。己の判断は間違っていない。しかしここは一度離れるべきだろう。ここは生まれ育った独竜岡だ。地の利はまだ自分にある。

 逃げる扈三娘の前に、騎馬隊が出現した。その先頭に立つ一騎に、扈三娘の目は惹きつけられた。

 矛先が蛇のようにうねる刃、蛇矛を手にした林冲がそこに待っていた。

 強い。欒廷玉と同じくらいか、あるいは。

 しかし、あの男のいる場所を突破せねば、扈家荘へ行く事は難しくなる。

 扈三娘は馬の速度を上げた。

「はああああっ」

 日月二刀を構え、扈三娘が吼えた。

 林冲も扈三娘に向かって馬を走らせた。

 刃と刃がぶつかり、激しい火花が散った。

 歯を食いしばり手に力をこめ、気合とともに刀を舞わせる。口を真一文字に結び、扈三娘の攻撃を防いだ林冲は、攻撃に転じた。

 まるで生き物のように扈三娘を襲う蛇矛。扈三娘は刀で弾くが、何度も蛇矛はその牙を煌かせ噛みついてくる。

 扈三娘は離れようと馬を動かすが、林冲は影のようにぴたりと寄り添い、さらに蛇矛を繰り出してくる。

 逃げる事を考えて勝てる相手ではない。扈三娘は敵の強さを悟った。

 息を短く吐き、扈三娘は意識を集中させ、一瞬目を閉じた。そして瞼を開け、林冲を見据えた。

 む、と林冲は唸った。退くという選択を絶った、ひとりの戦士の姿がそこにあった。

 林冲の目が変わった。蛇矛を構えなおした林冲の目が獣のようなものになっていた。

 風を切り裂く音が後から聞こえるほどの勢いで蛇矛が突き出された。扈三娘は体を微かに曲げ、それをかわした。いや、かわす事しかできなかった。反撃しようとするその前に、次の一撃が扈三娘を襲うのだ。

 扈三娘は必死に耐えていた。そして機が訪れた。躱(かわ)しざま、扈三娘は持てる力を振り絞り、蛇矛が引くのに合わせて左の刺突を放った。

 だがそこに林冲の姿はなかった。扈三娘の右に、すでに林冲がいた。

 誘いの手だった、と扈三娘は悟った。

 林冲が扈三娘の延髄に、手刀を打った。

 う、と呻き、扈三娘が意識を失った。からり、と日月の二刀がその手から落ちた。

 くずおれる扈三娘を林冲が抱え、宋江の元へと向かった。

「助かりました、林教頭」

「敵ながら、大したものです」

 気を失った扈三娘は、まるで眠っているようだった。

 それは海棠の花と呼ばれるにふさわしい美しさであった。

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