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海棠

 李応は肘を擦(さす)りながら、渋い顔をした。

 祝彪に傷つけられ痛むからではない、もっと深刻な事態が起こったからだ。

 梁山泊が李家荘に来ていると、杜興が告げた。先日の夜にかけて、梁山泊が祝家荘を攻めたという報告も聞いていた。ついに始まったか、という思いだった。

 楊雄と石秀も梁山泊とは関係ないような口ぶりだった。実際に李家荘に来た時はまだ入山する前だったらしい。しかし李応は梁山泊に味方したという形に取られてもおかしくはない状況となった。

 さらに今、目の前に来ているというのだ。何の目的かは分からないが、頭領の一人である宋江が会いたいと言っているという。祝家荘、扈家荘と誓いを立てているからには、これ以上の関わりはすべきではない。

 李応はそう決めると、杜興にその旨を告げるよう命じ、椅子に深く座った。

「李応さまは祝彪に受けた怪我が思いのほか重いので、療養されているためお会いする事はできません。なにとぞお引き取りくださいますよう」

「杜興、先日は世話になった。李応どのは奴に、祝彪に怪我を負わされたのだぞ。であれば祝家荘に遠慮する事もあるまい、どうか力を貸してほしいのだ」

 杜興は楊雄をじっと見つめた。その顔には深い苦悩が見て取れた。

「楊雄どの、あなたは恩人だ。しかし李応どのも恩人なのだ。李応どのは他の荘との盟約がある。梁山泊は道理をわきまえた方々と聞きます。どうか何も言わずにお引き取り願いたい」

 杜興は泣いた鬼のような表情だった。

「なるほど、貴殿の言い分ももっともです、杜興どの。楊雄と石秀に手を貸してくれた恩があります。我々は李家荘には近づかないと約束しましょう」

 宋江は微笑みながら、杜興を安心させると、全軍に移動を命じた。

 杜興はそれを見送りながら拱手し、深く目を閉じていた。

 宋江らは林冲の隊と合流し、駐屯地へと戻った。

「申し訳ありません、宋江どの」

 楊雄と石秀が誤ってきたが、宋江は笑って返す。

「なに、二人のせいではない。李応どのも盟訳に背くような事はせず、杜興というそあの男も主に忠実に仕えようとする、実に好漢ではないか」

「好漢なものか。兄貴がわざわざ出向いてやったというのに、顔も見せずに会おうともしないなんて」

 李逵だけがぷりぷりと腹を立てているようだった。宋江は戴宗と、何とかなだめると次の策を練る事にした。

 軍師である呉用がいない事が悔やまれるが、そうも言っていはいられない。呉用ばかりに頼る訳にも行かない番が、今後も出てくるのだから。

 李逵はもちろん林冲や秦明も正面突破を進言してきた。白勝が調べたところ、祝家荘は道の秘密を知られたと知り、白楊をすべて切ってしまっていた。しかしさすがに根まで掘り起こす暇はなかったようで、日中ならばそれを目印にできる。それならばもう敵する者ではない、という主張だった。

 宋江は腕を組み考える。李応が祝家荘に援軍として駆けつける事はまず無いと考えてよいだろう。残るは扈家荘だ。

 よし、と自分に気合を入れるように声を張り、一同に告げた。

「祝家荘を攻める。出撃の用意を」

 おお、と天をどよもす喚声が上がる。李逵も嬉しそうに斧を掲げていた。

 宋江と共に馬麟、鄧飛、欧鵬、王英が先陣となった。

「へへ、宋江どのに良い所見せなくっちゃな。俺は梁山泊に入ったばかりだしな」

「おい、あんまり肩に力を入れると失敗するぜ、鄧飛」

 王英と鄧飛がそんなやり取りをしていた。

 配下に慎重に道を探らせながら、やがて独竜岡の祝家荘に着いた。昨夜は分からなかったが、実に雄壮な構えだった。鄧飛も思わず黙ってしまうほどだった。

 だが宋江は門前にたなびく二対の旗を見て、歯嚙みをした。

 水泊を平(たい)らげ晁蓋を擒(とら)え、梁山を踏破し宋江を捉(とら)えん、という文字が風に翻っていたのだ。

「おのれ私は良いとして、梁山泊や晁蓋の兄貴を侮辱するとは」

 祝家壮からの刺客があった事を思い出し、宋江の拳が強く握られた。

 後陣の林冲、花栄、穆弘、李逵を表門から攻撃させる事にして、宋江隊は裏へと回った。挟撃しようとしたのだ。しかし宋江の目論見は外れてしまった。

 祝家荘は裏側さえも鉄壁の様相を呈した頑丈な構えだったのだ。これはどうしたものか。

「宋江どの、西から何かが来ます」

 欧鵬の報告と同時に、その方角から土煙と歓声が沸き起こった。西は扈家荘のある方角だ。援軍に駆けつけたのだろう。こちらが挟撃される形となってしまう。

 馬麟と鄧飛を裏門に残し、宋江は欧鵬、王英を率いて扈家荘軍に向かった。

 扈家荘からの兵数はおよそ三千ほどか。一気に坂路を下って来る。

「欧鵬、王英、迎撃の準備を」

 宋江の指示で、二人が槍を構える。扈家荘軍がみるみる近づいてきた。見ると、中央にいるのはどうやら女性のようだ。

 扈家荘に腕の立つ女将軍がいると聞いた。その彼女なのだろう。

 宋江らと少し距離を空け、扈家荘軍が止まった。その女将軍が朗々と呼ばった。

「我こそは扈家荘が扈三娘。卑劣な梁山泊を滅するため、祝家荘の助太刀に参った。命のいらぬものはとっとと出てくるがよい」

 まだ少女と言っても良いほどの年齢だった。宋江が欧鵬に命じようとする前に、一騎が飛び出した。

「俺に任せてもらうぜ、欧鵬」

 それは満面の笑みを浮かべた王英だった。

 扈三娘は全く臆する様子も無く、口元に笑みさえ浮かべているようだった。

 

「性懲りも無く来たな、梁山泊の連中め」

 祝虎が吐き捨てるように言った。祝竜と祝彪もすでに武装して、その広間にいた。

 家長の椅子に座る祝朝奉は、じっと遠くを見るような目をしていた。

「扈家荘の娘がさっそく刃を交えているようですな、先生」

 先生と呼ばれた、祝朝奉の横に座る男が、うむと頷くと三兄弟を見た。

 祝家荘の武芸師範として雇われている欒廷玉(らんていぎょく)という男であった。

「祝竜、祝虎、祝彪、そろそろ出陣の用意を」

「扈三娘だけで充分だと思いますが、先生」

「わしらはまだ梁山泊の本当の力を見ておらん。いかなる時でも相手を侮ってはならんぞ、祝彪」

「すみません」

 祝彪はやや不服そうに謝ると、先に広間から出て行ってしまった。すぐに祝竜、祝虎もそれに続いた。

「申し訳ありません、先生。まだ己の腕に頼っている所がありますので」

 祝彪をかばうような祝朝奉に、欒挺玉は何も答えなかった。

 先ごろ梁山泊へ放った刺客が倒されたという。欒挺玉は思う。やはり梁山泊は侮れない存在なのだ、と。

 そして自身も立ち上がり、甲冑を着込むと広間を出て行った。

 祝朝奉は、縛られていた糸が解かれたように肩の力を抜いて、ほっと溜息をついた。

 

 王英が間合いに入るなり、槍を繰り出した。

 扈三娘は慌てる風もなく、二本の刀でそれをいなす。はあっ、と気合を入れなおも王英の攻撃が続いた。だがその全てが扈三娘の刀で弾き返されてしまった。

 一旦、距離をおき、王英は扈三娘をにやりと見た。

「へへへ、一丈青なんていうから、どんな男勝りかと思ったら、とんでもねぇ別嬪(べっぴん)じゃねぇの」

「この、無礼者め」

 王英のからかいに怒った扈三娘は馬を駆けさせ、王英に迫った。だが王英も馬を駆り、間合いを広く取り、またもからかうような口調になる。

「へっ、槍の間合いで刀が届くと思っているのい、お嬢さん」

 それに今度は答えず、扈三娘はその位置から刀を振るった。

 王英は青い光を見た。まずいと思い、咄嗟に槍の柄で光を遮るように体をかばった。

 ぎぃん、という音と共に手が痺れ、槍が地に落ちた。

「な、今のは」

「ふん、上手く槍で防いだようね。でも、次は無い」

 確かに刀の届く間合いではないはず、だった。しかし王英が感じたのは確かに剣戟の衝撃だった。

 扈三娘が王英を狙っている。次は無い。扈三娘の言うように、もう防ぐ物は無い。

「退(ひ)くんだ、王英」

 宋江の声が聞こえた。

 しかしその時、王英は体を沈め、扈三娘に向かって馬を駆けさせた。一気に距離を詰めると、王英は驚くべき行動に出た。

 王英は何と鞍の上に立ち上がり、扈三娘の馬に向かって跳んだのだ。宋江、欧鵬もこれには驚き、扈三娘は尚更だった。刀を振るおうとしていた手が止まった。

 扈三娘に向かって王英が飛んでくる。両手を広げ、抱きつかんとする勢いだ。

「もらった」

 王英がにやりと笑った。

 しかし扈三娘は、その一瞬で冷静さを取り戻していた。

 体を捻り、逆に王英の腰辺りに腕を絡ませた。抱きかかえるような姿勢で、王英の勢いを利用して地面に放り落としたのだ。

 背中を強打し、王英の息が詰まった。

「この無礼者を取り押さえろ」

 扈三娘の命令一下、扈家の兵たちが縄で王英を縛りあげてしまった。

「王英を放すのだ」

 欧鵬が宋江の元を離れ、馬を駆った。すぐに二騎の距離が縮まり、欧鵬の槍が繰り出される。扈三娘はそれを刀で受け流した。

「さっきの男よりも、少しはできるようだな」

 欧鵬の槍が流星の如く扈三娘を襲う。しかし扈三娘の操る日月(じつげつ)二刀に全て阻まれてしまった。

 欧鵬は唸った。王英との戦いで見たあの間合いに、槍の有利さが活かせない。欧鵬は思わずつぶやいた。

「むう、女にしておくには勿体ないほどの手練(てだれ)よ」

「女だから、何だって言うの」

 突然、扈三娘が激昂した。その美しい顔には怒りの表情が浮かんでいた。

 おお、と叫び、欧鵬をそれまで以上に攻め立て始めた。

 抗しきれない。欧鵬は何とか刀を防いでいたが、扈三娘の勢いは止まる事を知らなかった。

 あ、という宋江の叫びが聞こえた。

 欧鵬の目に青い光が見えた。防がねば。間に合わない。

 欧鵬の見開いた目に、刀の切っ先が映っている。

 その刀は止まっていた。欧鵬の目の前、数寸のところで止まっていた。

 欧鵬は見た。刀身に鉄の鎖が巻きついていた。

「間に合った」

 刀から伸びる鎖の先に鄧飛がいた。

 ちっ、と鎖を振りほどくと、扈三娘は一旦馬を下がらせた。

「すまない、鄧飛。助かった」

「礼はいらんよ。それよりこの女をどうにかしなきゃいけねぇ。二対一とは卑怯かも知れんが、そうも言ってられねぇようだしな」

 鄧飛は扈三娘を見据えたまま、鉄鏈を回し始めた。

 欧鵬と鄧飛が駆けようとした時だった。祝家荘の吊り橋が下り、裏門が開かれた。

 中から一騎の若者と兵が飛び出してきた。その数、およそ三千ほどか。

 その一騎、祝竜はまっすぐに宋江を目指して突き進んでいた。

「鄧飛、宋江どのを」

 欧鵬の言葉に弾かれるように鄧飛が馬首を返した。

「助太刀など、いらぬというのに」

 扈三娘は誰に言うでもなくそう呟いた。少し冷静さを取り戻したのが、自分でも分かった。

 お前が男に生まれてくれれば。

 扈三娘の頭に扈太公の言葉が響いた。何度その言葉を聞いたのだろうか。

 扈家荘主の娘として生まれたからだろうか。ほかの女児が人形で遊ぶ中、扈三娘はすでに刀を手にしていた。

 才能があったのだろう。扈三娘はみるみる刀の腕を上げ、すでに兄の扈成をも凌ぐようになっていった。

 その頃からだった。扈太公が嘆息しながら、何度もそう言っていたのだ。

 まるで女に生まれた自分が悪いみたいではないか。そして扈三娘に言っているその言葉は、さらに扈成をも傷つけていた。

 家督を継ぐ長子である扈成の武芸の腕前は人並みだった。だから祝家荘、李家荘に対して扈太公は引け目を感じていたのかもしれない。そのため祝家から婚姻の話があった時も迷わず受けたのだ。そうして扈家荘を永らえようとしたのだろう。

 しかし当の扈成は、良くも悪くも分(ぶん)をわきまえる男だった。扈三娘に武芸で敵わない事は重々に承知していたし、それを悪い事だとも思わず、恥じてもいなかった。その分、扈成は扈家荘の経営に才能を発揮していたのだ。

 扈三娘が振り仰ぐと、城門の上に許婚である祝彪の姿が見えた。どこか傲慢そうな笑みを浮かべていた。

 あれが夫となるのだ。

 扈三娘は眉間に皺をよせ、目を瞑った。

 そして言葉にならない、浮かんだ思いを振り払うかのように頭を振ると馬に鞭をくれ、駆けだした。

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